妖婆伝26


「ここでの暮らし、はや二年、温暖な気候だし四季の移ろいも明快だったわ。もっとも雨の日の多いが難点といえば難点、じめじめする上こまめに掃除していてもすぐあちこち黴びてのう、そんな日々に追われるまま、彼岸や盆、正月はもちろん月ごとの習わしに準じた家元の行事すらよく覚束ん、相も変わらず下働きに従事する身、催しの行なわれる日はそれはにぎやか、随分と遠方からの来客もある様子、とはいえわしは花を活ける席上に呼ばれた試しがない、華道の通人にはそこそこ名の知れた家元らしく、そっと覗き見れば、華美な乗り物のすだれがゆるり、艶やかな女人の姿、脇に控えし隆とした御武家、更には公暗和尚を想起させる高僧の立ち居、その後ろには見るからに富裕な商人がちらほら、普段とてほとんど家人の他に接する機会なぞなし、なにやら優麗な絵巻が庭先へひろがった按配でな、すっかり見とれてしもうた。
しかし四季折々の機微に接していたかと問われれば、かの訪問客を見物するに似て厚き緞帳で遮られており、風雨の眺めや寒暖は感じていたであろうが、ときに即した移ろいまでしみじみ実感してたのやら、どちらかといえば取り留めない想念に流されておった。きらびやかな人々の風姿がはかなく目の前から消え去ったように。
空模様の移り変わりは遅れてやって来た荷車みたいにわしのこころを占領することがあった。暗い影が落ちるばかりでない、平穏とも慣習とも異なる薄明るい道程をたどって、今ここに居るという感覚がほろっとこぼれれば、あたかも土間にしみ入る濃淡がみるみる間に確実となるように、決して安堵からもたらされたものでなかったが、さほど不安の材料にも思えなく、気休めは気休めなのだろうけど、不思議と日毎の生活に溶け込んでいるふうな感じがし、ふと空を見上げたものだった。そしておもむろに荷をほどく仕草をなぞるはいかなる所為ぞ。
源氏の君でもあるまいが独り、雨夜の品定めよろしく内弟子らを観察しておったのが懐かしくもあり、こうして現今もなんら発展せぬ情況に置かれているのが恨めしくも微笑ましい、はてこれは自嘲なるかや。
で、暮らしぶりにこれといった変遷がないのは、あんたも聞いててつまらぬだろう、何せここは竜宮城の影絵みたいな風情だが、ときの経過もこれまた緩慢、太郎翁は刹那を過ごして来たけど、影絵はそういうわけにいかぬ、色彩に乏しいだけ挙止は的確に見届けられよう、荷車の輪とて例外ではない、その車輪の回転をすっと速めてみようか、さすれば物語りは一気に滑り出す、その分わしも年をとろうが。
更に五年の月日が流れた。竜宮さながらみな老けこんでおらん、これは随門師を筆頭にしてじゃが、、、いやいや年嵩のごん随にせよ、おなごらはほんに美しいままよ。気だてはあの日以来べつだん変わるところなし、それゆえ連鎖は安定しておる、こりゃ皮肉というより諦観だわな。わしの後進なぞ現れるか半ば期待していたのだが、この不動の面々であるからこそ、これから話す奇態な展開を迎えられた。古酒が熟すよう、無論のこと、いわくありげな双子だの、年少であった機敏な目つきはどうなっただの、増々取りつく島がないのだろうかだの、つまるところ随門の正体はだの、悪酔いしそうな熟成はいたって健全であり、成るべきして成ったとしか言い表しようがないわ。
ほれ、もう一献どうじゃ、もたもたしておると夜が明けてしまう、酔いにまかせるのがちょうどええかもな、どれ、では愛しの阿可女との因縁へまわすとしようぞ。
おなごらはともあれ、下男の古次とは心安いとまではいかないが、挨拶の他にも細々したことを話すようになっていた。従前どおり実直一筋だったけれど、決して身構えているふうには思えなんだ、むしろ罪人として懲罰に甘んじた挙げ句なにやら清澄な空気に囲まれているような心境に達したのだろうか、最近では冗談めかしたわしの意見にも素直に応じてくれる。あれは一年ほど前じゃ、春の陽気の浮かれに便乗してこう尋ねたことがある。
ところで古次さん、罪を犯したって申しておりましたけど、そんなに悪いことしたのですか、ひとを殺めたとか、、、まさかね、だったら今頃は牢屋か獄門、でもここは御上から免罪符でも戴いているようですもの、いえ、わたしだって色々ありましてね、あら、そんなに見つめないで、、、そうよ、わたしだって悪党、仔細はお話できませんけど、以前は庄屋、いえ昔でいうところの地頭みたいな家柄でね、それはそれは恐ろしい屋敷でしたの、、、と随門師のもとに身を寄せたいきさつをかいつまんで聞かせ、妙や満蔵らとのただれた色欲をちょいとばかし抑え気味に、それとさすがに春縁殺しのいきさつは伏せておき、あとは記憶に沿おうが沿うまいが、いかにも虐げられたうえでの抵抗、うなぎの本性はあってなし、すべての罪科は不遇にあるとだと強調したのじゃ。
最初、驚きを装うた振りさえし、そのくせ内心はまさに驚愕そのもので、面に出てしまうのを危ぶんだ古次、初心だわなあ、間を与えることなく悲愁の面持ちでつぶやくよう、やがて潮が満ちるを真似て性急にたたみかけるよう、ほとんど哀願に近い声色でいつぞやの朝みたいに身を寄せた。一通り耳にしてなお物足りない様子がありありと窺えるのは効を奏したあかし、それぞれの顛末に疑問が生じておるのじゃろう、別にそうした心算が働いたわけではなかったが、疑問が残るのは当たりまえだわな、謎を明かせば忽ちうなぎが躍り出る。おおいに首を傾げていてくれればそれでええ、だが、間延びしてしまうのは茹で過ぎた素麺をすするごとくかや、疑念が点じている矢先こそ、話頭を転じるに格好と読んだ、そこですかさず、ねえ、古次さんだってさぞかし辛酸をなめたのでしょう、と一言、相手の瞳に吸い取られそうなか弱をさらす。あとは返答を待つのみよ。
さながら共犯者の心情、拭われるはずもない罪の精は時間の裁可から放免され、ある固有な形態に近づこうと躍起になる。そのとき、わしの大仰な悲哀はすっかり古次に絡みつき、耳目はもちろん小さな毛穴からでも菌が侵入するごとく乗り移る、これはあくまで側面の見方、異なる角度から判ずれば古次の理性が正確に動き始めたといえよう、邪性ではないよ、あくまで理性じゃ、そう信じることでようやくこの下男は汚名を晴らそうとしている、誰しも同じものを抱えておるわ、根っこに眠る生き物と共存せよ。ただし両目が爛々になるほど目覚めてもらっては困る、かといって惰眠をむさぼられては馬力どころか、鼻水も涙も出てこんわ。
ともあれ、企みというより咄嗟の機転は古次の胸を開かせるに至った。正直わしは有頂天だったわ、覆い被せたとはいえ、ここに来てやっと淡々とした日常から解放される、観劇の居住まいではなかったけど、まさか斯様な戦きの重しがのしかかってこようとは、このとき夢にも思わなんだ、、、」