妖婆伝23 「夢の明晰さとはうらはら、翌朝の身支度ともども細々した光景はどこへやら、よほど意気込んでおったのか、さては緊張かいな。朝の挨拶にうかがったはずの随門師の面持ちも忘れてしもうとる。これから如何なる生活が、いや、境遇が待ち受けていると案ずれば、身のまわりの些事なぞ眼中にあってなし、もっともまなこはしっかり見開いておるものの、ちょうど浮ついた気分に等しく収まるべき視点が結べんかった。唯一中庭にさほど大きくもない池があり、朝陽を勢いよくはね返していたのがまぶたの裏にきらきら、魚影を探るのが努めであるかのようにじっと見つめた素振り、気恥ずかしくよみがえってくるわ、空疎な居ずまいよ、反照のまばゆさとてわざとらしい、池の水面を撫でゆく微風の思惑にさえ及ばん。 思い出のひとこまは隅々まで、そうじゃ、四角であろうが楕円だろうが、その鏡に映りこむ様子は常に曖昧模糊として、中心あたりにだけ華やいだ色彩を残していったようだわ、華やいだといってもどぎつい印象の域を出んかったし、そう照り返すのが宿命みたいなものじゃったから、一見あわてているふうで内心は落ち着いていたかもな。回想とは緑葉を透かし見るに似ている、薄様に遊ぶ影とともに。 とにかく昨夜の心持ちから少しは解放されていたようだわ、それくらいの記憶は留まっておる。 ちょいと町並みを、なに、これは後々見知った景色じゃ、あんまり外出する機会はなかったけれど、一応説明しておこう。 険峻な道中、まことにもってしかりじゃなあ。そよぐ草木はおおよそ浜風のしわざ、そろそろ秋の気配が近づいてはいるが、見まわすまでもない、三方押し迫るような山々の濃い緑まだまだ陽光に甘んじ、白雲垂れながら均一な青みを失わん空模様、稜線を明確に描いてやまん。ひとっ飛びに駆け上がりたい衝動がわいて来るのが自然よ、可愛らしい笛の音を想わせとんびが旋回すれば、空の高みに吸い込まれ、遥か彼方まで舞い上がって行きそうで気分爽快、消えた鳥のゆくえを追いながら、南の方角に白浜を覚える景観、猫の額ほどの平地に民家はところどころ寄りそっておる。山肌が間近に感じられるくらいじゃで、河川の水かさも雨脚に左右されるとみて、三つの川は中々幅があり流れも早い。北の縁には神社仏閣、そこから浜に至れば、ちいさな港ながら漁師に交じり商いの衆も少なからず、桟橋より船着き場に沿って遊郭の並び。随門師の住まいからは色町を望めんが、裏山に、山というても小高い丘ほどでな、そこからゆき交う船の影がかろうじて認められ、陽の傾くころ合いには灯火が一列に浮き上がって見える。初めての晩に誘われた潮騒とて滅多に届いては来んのだが、あれは夜風の加減かのう、それと潮の香りもいつしか気にならんようになった。慣れは良いものじゃ、耳鼻に伝わる刺激をまろやかにしてくれる。もちろん気持ちの変化にも、、、 さてと、町案内はそのうちあらためて、悠長に語りたいところじゃが先に進もう。この屋敷の主は紛れもない華道の師匠、広々とした庭園には季節の草花がところ狭し植えられ、門弟らしき人々の出入りは頻繁でな、阿可女の他に内弟子の女人三名、住み込みの下男、おっと、追々詳しく聞かせるがこの下男、まるで阿可女にふりふたつ、いやはや双子といわれても異存ないわ、これらの者が甲斐甲斐しく立ち働き日々精進しておった。というのも、まえの屋敷とは異なり少数精鋭なのか、質実な家風なのか、飯炊きはむろん清掃に洗い物それら家事を下男ととも実にきびきびこなすのじゃよ。役割分担をするようでな、向こう何日はこれこれの担当と決めておる、わしは不慣れどころかお人形さまで通して来たからのう、ろくすっぽうお茶もいれられんかった。 随門師、阿可女らはその辺の事情を分かっていたのか、平身したくなるほど気優しく対応してくれてのう、じきに手足が慣れるでしょうから気楽にやって下され、こう申す始末じゃ。更に感激したのは、追って花の方を修行される身なれば日頃の手仕事はその下積み、わたしどもと一緒に専心いたしましょう、生真面目な表情の中まさに花が香るような澄んだ色の声、目線を合わすにもうしろめたい気がしていたら、すっと手を取って、しみじみ見つめられる、が、なんとも名状し難い気後れに反対にほだされ、涙腺がゆるみかけてしもうた。知らぬ間にわしを取り囲む人数、阿可女に手を握られたまま見遣れば内弟子のすなわち、白糸、の毛子、ごん随の三人だったわ。その刹那あたまをよぎったものがある。そこそこの門構えながらこじんまりした一統、しかし濃密な人情、修行一筋、質素倹約な様相があまりに奇麗すぎる、、、ああ、又しても陥穽かや、、、 懸念を保つ間はないはずだった。とにかくわしは我武者らに働いたからのう。決別と呼ぶべき夏はとうに過ぎ去り、山々も庭の景色もすっかり紅葉に染まって乾いた空気がときおり鋭くひやり、天高くも気分はそぞろ、いやいや、精進したつもりだけれど日々の働きが板につけばつくほどに謎めいた箇所が立ち現われてくるものよ、夕餉の片づけなり湯殿の支度を終えると、内弟子らは随門師の部屋へ籠ってしまう。日中も手のあいた者は教えを乞うておる様子だったが、当然わしに声はかからん、と同時に阿可女らの態度に嫌みや蔑視はないものの、先日の激励の口調とはいささか距離があるよう感じる、これも精神鍛錬かとおのれに言い聞かせてみたが、胸のうちは穏やかでない。はっきりはしておらんけど下女扱いにしか思えん、普段の会話なぞまるでない、ここは修行の場、言葉をひとつ交わすのも作法ありきかとうかがっていたんじゃ。ところが実情は違う、わしがいてもいなくても内弟子らはなごやかに無駄話しに興じておる、別に下女なら下女で上等なんじゃ、こうして住まわしてもらえるだけでありがたい、今更こんな愚痴を吐ける身分でないわ、三たび修練と思いなし、阿可女たちの顔色から目をそむけようとした。それが逆に増々不安を募らせ、考えたくもない陥穽という言葉を呼び戻した。次の日からはあたまのてっぺんに穴が開いた気がし、ぼんやりと蓋を探しておったわ、、、ああ、さほど苦痛でない、むしろ自由であるのかも知れん、そこで手持ち無沙汰なればあれこれ考える性癖がもたげて来たというわけじゃ。 いいや、食い物のことではないわ、聞かせた通り質実な生活、取り留めまでもなし、ましてや生唾をのむような珍味なぞあり得んかった。まず内弟子のひとりごん随がどうもその名から察せられるよう近親者であるということ、それに下男の古次の容貌、見れば見るほどに阿可女そっくり、この二件が気がかりで仕方ない。まさか新参のわしから他の誰かに、そうなんじゃ、他にっていうてみてもわし以外は鉄の絆でつながっていて、とても割り込める余地はない、ここはひとつ空想をめぐらすかと言いたいけど、置かれた場所が狭すぎては羽がはばたけん、黙って精進するしかないか、余計な神経はもう沢山、そうだったわな、と諦めかけたそのとき、まさに天啓じゃ、場所のせいにするとは情けなや、ありきたりに直接に真意を問うなど愚の骨頂、誰彼でないわ、どうやったら謎を知り得るか、その為にはどうしたらよいのか、考えてみればよい、すでに実証済みだろうて、妙の裸を想像してから交わりに至るまでどのように勘案したのか思い出せ、欲情にほだされた故であったが、今の疑問とて衣服のすそをめくるような色香を含んでおる、さあ、そこからはとんとん拍子で、あたかも血のめぐりが良くなった指先の如く動き始め、事は算段された。 一か八かの賭けに等しかったが理はかなっていたわ。つまり随門師をのぞく異性は下男の古次しかおらん、色仕掛けすれすれですり寄れば他の者より胸襟をひらくであろう、よもや衆道では、いや、それはどうだろう門弟は子女ばかり、男色の輩が斯様なところで燻っておれるものか、待て、随門師の相手だとすれば、、、これが賭けよ、とはいったものわしはそれとなく古次の仕事振りを眺めておってな、随門師の身辺はやはり内弟子らが世話をしていて明らかに下男の出る幕はない、これも偽装だと疑ってみるのはどうかや、人の出入りする日中はともかく夜間まで一体誰を欺く、まさかわしをかい、通達はなされているはずじゃ、わしに関する様々な事柄は、、、これで決まりだわな、さあ後は古次に接近するきっかけ、、、あんた、歯がゆいだろうから、行動に移したところまで端折らせてもらうよ、はははっ、、、 冬の冷たさを先んじて感じる晩秋の頃、長雨の日が続いたある日和、早朝など吐く息が白くなるよう錯覚してしまう。これはいい按配じゃ、ふとした思いつきを胸にかねてより暖めておった企てを実行するときがやって来た。薪割りやら落ち葉集めに精を出す古次、その日わしはなくし物をした振りで挨拶もせわしなくあたりをうろつく。下男らしく寡黙な身構えはかえって好都合、小声で、ほとんどつぶやきでかんざしを探す素振り、執拗に。 渦巻きに乗った小舟が中心に運ばれる如く、わしは古次に歩み、つまずき、よろめいてその腕に支えられる。はっとした目のひかり、吐息は白く、だが情熱を秘めたくちびるの紅い艶は古次の眉間にとまどいを、頬に証明できぬ親しみを投げかける」 |
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