妖婆伝22


「険しかった山道に懐かしさを覚えてしもうたのは、木々が恭しく退いたよう一気に眺望が開け、西日を受けるまばゆい緑の残像によるもの。それは眼下にひろがった海原の深い碧さへと吸い込まれてしまう鮮烈な色の後退であり、ときめきにも似た惜別の情だった。
駕篭かきふたりはさして屈強な風体ではなかったけど、陽の落ちるまで二十里の道のりを辿ったのじゃから恐れ入ったわな。もっとも港町までの距離はまだまだありそうだし、地名すら聞き及んでおらんかったから、ひょっとしたら公暗和尚は適当な里程を口にしたのかも知れんわ、が、そんな疑心を持ったところで別段どうこうない、今この眼をきらきらと輝かせている波間の反照の遠さに意識は占領され、あたかも夜空に散らばった星の瞬きによって暗黒が至上の背景となるごとくに、こころの闇はのっぺりしていた。いずこまで連れて行かれるのやら、、、憂慮を抱えているにもかかわらず、目覚めを告げる鳥の声を半ば疎んじているような、それは時間の上澄みにも感じられ、たとえば納戸に入りこんだときのくすんだ色彩が漂う暗がりであったり、散策の道ばたに落ちるおのれの影に捕われし蟻一匹だったわ。
長閑な風情をたぐり寄せておったわけじゃない、悠久の夜空より初めて眼にする海を、陸地がすっきりと駆逐された広大さを、だが一層こころ揺らいだのはその計り知れない深さの底に棲息するであろう、魚介の類いに得もいわれぬ親しみが湧いてきたからだったのじゃ。うなぎの先祖帰りかや、説明つかねばそれでええ。
すっかり陽が沈んだ頃、とある門口に駕篭はその任を終えたとみえて優雅に、しかしながら地面の固さを重々に思い知ることで到着の合図がなされる。取り次ぎの声色もまた労をねぎらいつつ、暗黙の了解を得たふうに見知らぬ土地を伝えば、さっと身震い、すだれをおもむろに上げ、人影をうかがう。先入主の働きであったわ、駕篭かきを迎える図には警戒心のありそうな面構えが相応しいもの、それゆえに男衆の声と聞き及んでしもうたのは早計、提灯片手に夜を背負うておったのはわしと同じ年格好のおなご、しかも華道に従事しているせいか、いやいや、これは思い込みでなく、提灯ばかりか軒先に灯った明かりはその姿態を余すところなく照らし、実にたおやかな立ち居、うっとり見とれてしまいかけた。ああ、そうだとも、ことさら妙の面影を擁しているわけじゃない、なのに彷彿させるものはあの貝合わせ、生々しい想い出である一方、沈みゆく苦みを含んでいながら甘露であり続ける余韻が偲ばれる。女体同士の戯れなどまぼろしだったのでは、、、花咲く影がわしを迎えてくれた。駕篭を出てから挨拶するべきだとちょいとあわてたのがいけない、足がもつれつんのめり無様に転んでしまってな、それでも目線は相手からそらさず、あらまあ、と驚いた表情の、崩れかけてもなお気品ある美貌の虜になったようで、失態を恥じるよりか、道中にめぐった思惑にそそのかされ、地べたに横たわったまま軽く会釈したんじゃよ。
すると増々怪訝な顔つきになりかけて、涼し気な目もとが冷ややかな蔑みに至ろうかと観念すれば、さっと雲間から切れ味のよい陽が射すよう、にこやかにおじぎされる、内心おかしくて仕方なかったのかも知れんけど、わしには天女の微笑みにさえ映ったわ。それが随門師の内弟子のひとり、阿可女との出会いじゃった。すぐさま起き上がりかけたところ、手を差しのべられ、そのさきの細々した箇所は忘れてしまったわい、理由は簡明よ、気が動顛していたんだろうて、阿可女の出迎えもその一翼だったが、空想していた不穏な空気を感じとることなく、深みを怖れていたばかりに、そう海に対する感銘もただ雄大であるだけじゃない、底知れぬ不気味さを隠蔽しようとする努め、都合よく浅瀬につまずく失態を演じ、妙のまぼろし、面映げに浮き出てくるあたり、想像の産物とは所詮たかがしれたものであったかやと残念がって、最悪の推定を払い除けようと執心しておったのが露呈してきた。早い話し安堵したのじゃ、門口にたどり着いただけでと思うだろうがのう、右も左も、天も地も、人情も邪心も分からぬ身、たったひとつの口実を頼りに生きるしか能がなかった。こう言うと神仏祈願の原点に降り立ったみたいだがな、うなぎの化身からしてみればさほど奇異でもあるまいて、奇異なのはわしのこころに巣食う魔性よ、あくせく働いてみても空腹にならず、そよ風が心地よい部屋なぞで昼寝をしておると猛烈に腹が減る。
とまあ、今は内観でもあるまい、気は的確かつ好都合に動顛し、いよいよ随門師との対顔となった。夜分のこともあり、踏みしめた畳のへりにもろ助の亡霊がひそんでいるのでは、そんな取り留めもない考えがよぎった記憶はある。阿可女のうしろ姿も思い出せるわ、亜麻色の着物が灯火にやんわり染められておるようでなあ、そのほっそりした襟足の白さは際立つのでなく、同じ灯火のなかで肌がしめす変化を見せまいと耐えているふうな情趣があって、なぜかというに、肉眼には映らないだろう薄紫の細やかな血の管が首筋にそってしたたり、まるで阿可女の炎が透かして出ている、ぞっとするほど陰惨な雰囲気にのまれそうでな、それでいて化け物じみているわけでなく、あべこべにか細い筆先で描かれた水墨画の幽かな儚さを宿しておった。美しいが故に近寄り難い、今から振り返るとあのおなごの気性を現していたのかもな、そして何より真に近づくことの出来ない小夢の幻影でもあったと思うのじゃ。
随門師はなるほど、公暗和尚に通じる柔和で従容とした物腰だった。もっともふくよかな容貌でなく、痩せぎすな体躯に細面、双眸も鼻すじもそれにならえで、上唇の薄さに至っては冷酷無比を地でゆく面相だけれどな、還暦はとうに過ぎただろうが肩にかかるところで切り揃えられた黒髪の艶やかさ、存外しわの見当たらぬ美点と相まって表面上は狷介な性分までに留まり、老醜をさらしておらん。ときおり定まる眼光も片意地から来る鋭さと判断したら、年寄りの頑迷はごもっともで、尚かつ華道ひとすじに打ち込んできたであろう生き方、風貌の是非を問うまえに慮るべきぞ。
謡曲に準じた古老の声のかすれにとげとげしさを感ずることのないよう、随門師が醸すものは朽ちた生花の哀れであり、向後も生けられる草花と共に分かつ命だったから、わしにはおっとりした様子に見えたのだろうか、とにかく尻からうの字は出さんでも済みそうな予測を素早く呼びつけた。その夜の夢見はありありと憶えておるわ。
夢の導きは紛れもない潮騒じゃ、闇のなかに白紙がひらり、一文字大きく書かれているのだが墨汁の性、暗黒に即してなかなか読みとれん、おまけに風もないのにふわふわ舞っている。つかもうと足掻くほど白紙は逃げてしまう、そこで仕方なくふて寝したんじゃな、眼は開いておった、いや閉じていたかもな。そのうち顔のうえにひらひら頬に乗っかったから手にし、じっと見つめた。そうなんじゃ、文字がざわざわ動いておる、更に凝視すれば、なんと墨汁ではない、この漆黒は蟻の大群のひしめき、夢と書こうとしているのか、ほんに単純だわな。わしが最初に知った文字だった」