妖婆伝17


「先導されるままに薄暗き渡り廊下、足音しのばせることを忘れたような、こわばる心持ちはどこへやら、奥の間へと案内される実感をともなっているようで、そうでなく、例えていうなら夢の出来事に向き合っている、あの放心が常に胸の奥にも、まわりの空気にも薄い膜で覆われている感じがして、なんとも申し開き出来ないもどかしさ、けれど確実に歩を運んでいる証しかや、冷ややかに頬をなでる寺院の宵の口の気配、鼻孔をくすぐる抹香の刺激と調和され、さながら死人の嘆息に触れる思いがした。
この世になき魂ならば斯様な感覚で面と向かおうか、捕縛の危ぶみから除かれたとはいえ、魂魄に魅入られるとはやはり不安が拭われておらぬのだろう、しっかり浮かんだ考えではなかったが、それなら夢の雰囲気は怖れを紛らわせる手立て、意識の片隅に居続けるそんな憂慮も実は霧雨、混同する頼りなさに促され、けぶる実相の手綱を引き、その足取り幽玄の彼方へ消えゆくまで。
公暗和尚とまみえるまでの束の間、脳裡に逆巻いた細々した念をわしは今でもよく覚えておる。肝が座ったと申せ、あのとき心境を支配していたのは牛太郎の死であり、小夢の崩落であった。ゆえに朦朧とした夢幻をたぐり寄せようと努めておったのじゃ。仔細はこれまで話してきたから分かってもらえるだろうて、一見身を捨てたかのようだが、屋敷を這々の体で逃げだしたと同じ、和尚に対する信頼の大方は畏怖に傾いておるわな。畢竟するにここが風前の灯火、うなぎの本性をあばかれるまでもなく、おのれの犯した宿業があらわになり、かりそめと気安く、更には不遜な居直りの城楼から物見していた生き様が低地に引きずり降ろされる。これまでの意想や情感、色欲に、少しは殊勝であったふうな顔、その反面まったく無頓着でしかなかったことごとは嫌がうえにも露呈されてしまう。その割りには針の穴へ通されるような怯み、先端も縮こまり細々した挙げ句に、いざ通過してしまえば、さながら命乞いが実ったかの勝算すら待機していてのう、どうやら業はそう簡単に根絶やしにならんとみた。なら幽玄の真意を問うは雨風にこころを充当するに等しいわ、風雨の冷たさはおのれの皮膚の責任じゃ。夢を知り、夢に遊べば、それが即ち現実よ。死罪に処されし者はこんなことを思いめぐらせるのか、それとも一切を認めまいとするのだろうか。
おそらく生涯においてもっとも緊迫した瞬間を彩ったのは、霧のなかの幻影、その薄靄の一粒一粒にまで施されたひかりの反照、極彩色であるかどうかは知らぬ、細めた眼にはまばゆいばかりよ、色遣いの機微には及ばん。あとに香る死人の匂い、感覚はまたよく心得ておるもの。
そうした本能とも技巧ともつかない集中のお陰で、いざ公暗和尚に体面したときは思いのほか気分が静まってしもうた。とはいえ、そのふくよかな顔つきに温和な目もと、一瞥しただけで出来すぎた容貌に違和を覚えたのも無理はない、それほど一筋縄ではいかん風体に接している、ここでだがのう、あんた、わしは急に寂しさと哀しさとが仲良く胸にこみあがって来るのをこらえきれんかった。どうしたわけか詮索するのも億劫というか、それすら辛くてなあ、いやいや身を裂かれるほどの辛さでない、あえていうなら、うしろ姿を追っかけるときの侘しさだけを抜き出しているふうでな、未練や執着などのしがらみは見当たらんのじゃ、多分うしろ姿が遠過ぎて、なかば諦めが優先しておるからなのか、それ以上はあっさり悲愁にあずけてしもうた。さっきの割り切り方とは矛盾に聞こえようが、あの切ない気持ちは忘れられん。
で、和尚じゃ。いつまでも感傷にひたってはおれまい。切迫した問題は怪異な和尚にあり、わしのこころにある。その間合いにすべてを投じるまでよ。顔見知りでありながら、今まで会話を交わしたことはない、まして差し向かいの場などあり得なかった。落ち着きを失っておったのか、無邪気な心情を願うたのか、相手に見定められるより早く、わしの視線は懸念も動悸にも左右されず、まじまじとその風貌に吸い寄せられ、どこをどう品定めするわけでもなかったが、単に大きいなだけでなくぎょろりとしてやや垂れ気味である両の眼や、それが生まれもった本来と納得してしまう鼻孔のひろがり具合、まさに団子鼻じゃな、そして不釣り合いに映ろうけど、すぼまった唇が案外、笑みをこしらえる際に大仰な間口に変ずることなどを注視ともつかぬ程合いで眺めておった。そこに何らかの意向を汲みとりたいでもない、ただただ見入っていた、あたかもときの過ぎように軽く反撥している調子でな。
公暗和尚はわしの心許なさに寛容であろうとする表情を崩しはしなかった。それが至極当然なのを逆に知らしめられているような気さえわき起こっていたからのう。ふっくら顔は血色がよく、袈裟懸けに包まれた体躯もどっしりしておる。血の気の失せたわしに向き合う素振りにそつのないのは言うまでもなく、大作りな目鼻立ちは一様に会心の笑みを誘い、一層際立った何ともまあ立派な形の福耳は、すでにわしの弁明を聴き取っているようじゃ。まだ会釈のみ、声はのどをあがって来ない。だが和尚の双の耳朶には才人が会得する能力でこちらが委曲を尽くさぬとも、はや鮮明にことの成りゆきへ辿っていたと思われる。
何故なら、沈黙と称するには過分かも知れないけれど、わしの目線をやんわり掌にかすめとったふうな手つきとともにやや膝を乗り出した仕草が、ほんにしじまと感じられ、それは刹那でありながら東雲を覚える薄目の安らぎに似て、こころしめやかに、うたた寝の安息でもあったような、慰撫に内包されていたから。
小夢さん、そう名を呼ばれたときにはまるで術中におちたのやら、はらはら落涙してしもうとる始末、それきり和尚の声は伝わらず、ひたすら冷えた頬をこぼれ落ちる大粒の涙にわれを忘れかけ、波の引きと寄せが広々とした空間に閑寂に呼応しているごとく、悲しみの理由を探り当てようとも、そうしまいとも欲しているのか、今度はときの経過をとどめてしまいたくなり、涙の果てるまでひとときの感情に溺れ続けていたかった。そんな所作がこの場面に一番適しているのをもう一方の自分が黙って見つめておったのじゃ。静寂を破ったに違いはないが、とめどもない涕涙はゆくえ知れずを嘆いている情念であり、潮騒に耳を傾けつつ、そのわけなぞ突き放し、あべこべにわけを遠ざける浅慮にこそ、熱き想いが羽を休ませておるのじゃろうから、静けさは汚されたわけでない。
和尚のまなざしをうかがう余裕があったところをみれば、浄めの涙が許されたのもおのれの知慮に関わってない、あまねく光線に照らされたると同じ、つとに救済されていたのだった。
口のなかが塩っぱく感じたのが、もう悲愴な味覚でなく、字義どおり泣いた子が笑顔に移ろう一瞬の陽気に、風の温もりに、大地の火照りにあるのなら、杓子定規な告白めいたもの言いは簡略されよう。が、そうとはいえ露悪趣味にひたる心性が払拭されない限り、涙は飾りものでしかない。うなぎの正体までさらけ出す気を持ち得なかったのは、まだこころの片隅のうちでは奇跡と特権が迷妄に入り混じっていたからで、感情の発露にさきを譲ったのも沈滞した不可思議に固執した由縁だったわ。泣きはらしたあとの惨めさを担っていたのは、悔恨の情が甘くすげ替えられてゆく影絵の単調であり、その濃淡に含まれる微細な証言だったのよ。他者に対する言いでない、おのれの胸裏に眠れる本能的な証しぞや。
公暗和尚の寡黙を勝手に解釈し、駆け込んだ身は傷つき薄ら汚れたものではない、きれいさっぱり垢を洗い流し毅然とした態度で臨んでいる、わしは自分にそう言い聞かせた。それからのやりとりはあんたにも聞かせた数々だわな、まずは世間知らずのお人形であることから始まり、屋敷の異様な人間関係、徒然に倦むあまり不埒な情欲に流れ、、、和尚さまもご存知のこと、そう切り出し、こちらの若僧とのいきさつ包み隠さず、そのうえで妙や満蔵にまつわる秘事を一切打ち明けたのじゃ。女体の神秘は異分子によるものとは決して話せぬから、あくまでその傾向を抑えられない不甲斐なさと長嘆してみせ、虚偽を弄し色情をまっとうしようとした浅はかさも白状した。覗き見の段に至っては公暗和尚の額に不穏な色合いがかいま見え、その陰りに世情からの隔たりを、ありきたりでない別種のいわばあちらの趣きをしかと認めたわ。
想像していたより和尚は口数が少なでな、わしはぼろを出さんよう警戒しながら、この山寺の門を叩くまでを一気に、そこは細心を計ろう、女人がしめせる限界のしおらしさで語り尽くした。わしは性根から間違っておったのじゃろうか。いいや、そうとは思えん、公暗の眼底にひそむ怪しき動き、見とったうえには牛太郎の名乗りは剣呑、たとえ女体を弄ばれようともそれだけは律しておった。
さて、一通り話し終えたのち、向後どうなるものかと案じていたところ、これが肩透かしをくったような具合でな、覚悟さえ決めていた囲いの身上でも、慰み者の地位でもない、公暗が言うにはここより二十里ほど離れた港町にひとまず身を寄せてみよと対処を講じる。屋敷の思惑はそなたの疑念に近いであろう、ならば言い訳も取りつくろう。これにはさすがに震えが来るほど驚いたわ、うれしいのやら、空恐ろしいのやら。
落ち着くさきはくだんの港町にてひっそり華道に専念しておる随門師匠と申す御仁だそうな。これでこの村ともお別れじゃ」