妖婆伝18


「おっとりとした風貌から申し渡されたる以外な提案、あれこれ思いめぐらす猶予のあたえられておらんのは瞭然でな、やわらかな口ぶりのなかには厳命が籠っている、わしの耳はそう判じ、何故ならこれはひとつの沙汰であり、そうあるのを願っているのは紛れもないおのれの意志だったからよ。
つまり公暗和尚が妙策を講じてくれたと信じることにしか、賭けは成立しなかったわけじゃ。わしの発心はとにかく急いていたからのう、有無を言う間などもとより必要なかったし、相手の言い分にうなだれながらにしても決して軽やかでなく、遥かに重みのある首肯に違いなかった。事情をよく了承してもろうた限りは速やかな進退が望ましい。が、手筈を整えるとしてなんの身支度もない、そんな憂慮を見て取るよう和尚の言うには早朝に立たれよ、随門師の方は追ってゆえんを通達しておこう、鷹揚にそう諭された。含みのない言い様だったが、わしの脳裡を閃光の如く擦過してゆくのは推量するも不可能な、闇の伝令がただちに暗躍し始めるすがたに他ならなかったわ。春縁殺しの後始末の際にみせた鮮やかなる活動、その実態は疾風を捕らえるより難儀であろう、背筋が冷ややかになりかけたけれど、こうした不穏なところへ駆け込んだ自分はいかがなものか、あたかも猖獗をきわめる巣窟に立ち入ったに等しいぞよ。
公暗和尚に深々とあたまを下げ、窮状を救ってもらった礼を述べたのが最期の対顔になった。あとは若僧の案内に乞われるまま、夕餉をいただき、湯浴みし用意された床につき、なかなか寝つけぬ夜を過ごした。翌朝には港町まで早駕籠の行程、いやはや至れり尽くせりじゃわ。
寝不足の心持ちを更に虚ろに、かといって神経が休まっているわけでなく、ぼんやりと駕篭に揺られていたのでもない、ちょうど暗雲を見上げたときに生ずる、天空の不吉を占っているような遠い願掛けとも、近くの、そうあまりに身近な体調の些細な変化を嘆いてみせる愚痴ともいえよう、凡庸な不安に覆わせていたのは、ありきたりな懸念だった。いとも簡単に困苦が打開されたはいいが、随門師匠やらと公暗和尚を結ぶ接点にそうそう好ましい事態が待ち構えているようには思えん、ちらちらと駕篭のなかへ朝陽を浴びながら山道の木々の緑が鮮明に映えるのを眼にしつつ、その胸に去来するのは寝静まった民家を離れ、裏街道を寂寞と駆けゆく夜の意想だったんじゃ。
さてと、話しの段も区切りがついたところで夕餉にしようぞ。どれ舟虫、支度は出来たかいな。続きは飯のあとでまた」

外の雨はやみそうになかった。どしゃ降りというほどではないが、雨足は強く、気休め程度の思いはまたたく間に消え去った。いや反対のようだ。老婆の語りにつりこまれていた自分は、ようやく雨の音を取り戻したのだろう。そして空腹を覚えた。苦笑してみたかったのだが、何故かこの場の空気に対しそぐわぬ感じがして、平静な顔つきを保とうと努めた。別に怪訝な思いを拭いたいのでも、緊張によるものでもない、ましてや安閑な甘えであろうはずがない。しかし、この身は言い難い節度を欲しているような気がし、いつもの自分とは異なる心情に運ばれていた。
「あんた、酒は燗がええかい」
老婆の問いにはっとしていたのが我ながら不思議だった。「おかまいなく、、、」どちらでもいいと答えたかったのだろうが、その実、初夏の蒸し暑さを過分に体感したような発想のもと、舟虫という孫娘の白い手から熱燗の酌を受けている情景がゆらゆら浮き出してくる。形をとるより早く人肌の放つ親しみが、肉薄する容色が胸にあふれだせば、すきま風にゆらめく灯火のごとく心細気な影となり艶かしく寄り添う。娘の容姿は鮮やか過ぎるくらいだが、となりの自分は灯火には照らされず黒子みたいに塗りつぶされ煤を被ったようでしかない。そんな幻影をよぎらせながら、いそいそと飴色をしたちゃぶ台に小鉢やら椀を並べている舟虫を横目にし、酒の支度に余念がなさそうな老婆のさきほどの声を呼び戻す。するとほろ酔いの気楽さが無性に恋しくなった。だが「熱燗を願います」と実際に言い直すことは出来ない。もういい、分かった、確かに緊張している、自分で自分を堅苦しくしているだけだ。遠慮なく酒も夕餉もいただこう、そして語りの尽きるころには夜更けに至るかも知れないが、明日は空模様に関係なく峠を越えるのだ。それだけのことじゃないか、一夜くらい自意識から解放されてもいいだろう、何ともつかみどころのない怪しい雰囲気のなかへ。話しのなかの小夢の運命が決まりそうな眠れぬ夜に比べれば、安気であった。
「さあ、召し上がれ。酒はぬる燗にしたよ、さあ一杯やりなさい」
屈託ない老婆の陽気な発音と、何かしんみりしたなかにも張りつめたような眼をした舟虫にすすめられ、杯は透明な酒で充たされた。濁りを永久に忘れた美酒、掌に昔からなじみであったかのような感触の杯、煽ったのではない、一息に呑み干したのでない、渇きを癒したのとも違う、例えるなら清水が口中に湧いて出た。土と石と草に待ちわびた異変が、あまりに自然な異変が訪れるよう潤いを覚える。ぬる燗だと老婆は言っていたれど、自分にはひんやりとした刺激に感じ、まぶたの裏には水面が張られ、すぐさま夕陽を小窓から見つめたときの切ない熱気に転じた。一口の酒がもたらす酔いは古くからの伝承のごとく、それは必ずしも鮮明ではなかったが、薄絹にひたされた酩酊の露払いと思われ、胸に歓びを知るより手足の指先に安堵が伝わった。
「もうひとつ」
次は舟虫が徳利を傾ける。つい今しがた彷徨いだした情景は誰の手を借りずとも、まるで薄衣の風に吹かれた、そう、あらかじめ寄りかかる梢を心得ていたかのように、すんなり座敷に舞い降りた。脇にこそ身は近づいてなかったけれど、日中うしろから呼び止められた際のきびきびした、少しばかりぞんざいな面影は日没とともに退いてしまったのか、どことなく陰をおび、青みが鮮烈だった着物も夜に溶けこんで、一目惚れを軽やかに容認していた自分の願いは照度を下げながらすぐ傍らにある実感を得た。峠越えさえ遅疑してみた不意のきらめき、蒼穹と田畑に広がった想いはもう隠しきれない。この女が自分の足を留めたのだ。老婆の物語はいわば、認められず放置されようとした初夏の情念を糊塗せんがため時間が割かれたに過ぎない。強く念じるまでもなく、美酒を含んだ意想は灯火のゆらぎに映発する舟虫の容姿にとらわれていた。再度まやかしの覚醒を拒む。
茶をすすったときの心許なさとは別の、たおやかで、繊細な欲情がもたげてくる。通り掛かりの自分に対し一夜の宿をと誘いかけてくれたは風土そのものだと、冷徹に考えていたのだが、それは単に逡巡でしかなく、夢心地を破り捨てる小心に傾いていたに違いない。
どっぷり暮れた田園に守られ高揚する意識のさきには清澄な夜の空気しかない。美酒の酔いだけではないだろう、すると老婆の語りが果たした役割を無下にするわけにはいかなくなって、何故ならば小夢のまぼろしが右隣に座っているような気配を先程からうっすら感じており、そのまぼろしがあきらかに舟虫の魅惑に重なり合うのは、ひとえに昔話のもたらした恩恵となる。こんな拮抗する想念は増々怪しくなる一方、混濁したあたまを舞う光景は、枯れ野の果てまで追いかけて来よう安達ヶ原の鬼婆に他ならなかった。