妖婆伝16


日暮れどきの沈める明るみが遁走するに似つかわしい。着の身着のまま、ちょいと表まで、飾らぬ容姿に秘めた動悸がうまく糊塗されているのは自分でも信じ難いわ、そんな有り体な足並みはどこに向かっておるのやら。
脇の木戸から薪を運び入れようとしていた爺のきょとんとした目つき、お母さまと声に出すことも忘れてしもうた子供らの小さな影、重なり合う乳母の屈託ない笑み、それらの影を深々と覆い尽くすであろう屋敷の甍が迫れば、これまでの暮らしは遥か海上に消えゆく船出を思い起こさせ、曖昧な大洋に感情がひろがる。見果てぬ夢が逆にすぐそこまで近づいているような、投げやりで、そのくせ小心翼々とした爪先は夕陽を追い越そうと努めている。土地の呪縛から逃れたい一心は生まれ故郷かも知れぬ海原のまぼろしを描きだしていたのだろう、朱に染まる帆が強風にあおられる如く、この身は急いておるのか。姑や妙、満蔵の視線は水平線の彼方に運ばれ、累の及ぶことはあるまいて、大地を踏みしめる代わりに水没を欲しているのがはかなくも潔い。わしの影法師は誰にも怪しまれず、通い慣れた堤を渡り、時折ゆき交う村人の会釈を受け、鬱蒼とした夏の名残りの林を抜けてなお、浮き足立った調子と我武者らが入り込んだ歩幅を保っていた。増々日の陰った一本道を心細気に、だが、普段着ながら気に入りのかんざしひとつ、あるいは草履の鼻緒、真新しくすげられたような、片隅に留まってはやんわりとしたうれしさを噛みしめ、ほの暗い山寺の門をくぐろうとしておった。
夕景のしめすもっとも陰惨で哀切なひととき、闇の侵蝕に譲歩する静けさ、一日の死、もう二度と戻れぬ今日という空間、単調な連鎖ゆえに日々の途切れに身をゆだねてしまう安穏、不慮に際して、苦境に臨んではじめて感ずる灰色の世界、きらびやかでふくよかであった反映をこうも遠のかせ、明日という繋がりに託す、風のような無神経さにとりあえず感謝すべきであろうかや。
渦巻く所思は、さながら絵の具が溶けだした錦絵と成り果て収拾がつかず、色落ちする見苦しさに眼を伏せれば、心情は自ずと彩色以前の無味で、血の気のない下地に舞い戻ろうと躍起になり、墨絵のごとく淡白な境地に着地する。さりとて胸中の華やかさ、脳裡の憂愁を手軽に見届けるわけにもいかん。混濁した意識は耳鳴りの安直さで分明しようぞ。
ことの次第は、、、忌まわしい色欲、恥ずかしながら、わたくしめもなにを隠そう、いいえ、ご存知かと、こちらの修行僧とのいきさつ、、、それに屋敷の内情、和尚さまはよく見極めておいででありましょう、不都合は如何なる所存と申されますか、、、はい、すべてお話いたします、そのうえで裁断いただければ、、、
わしの出来うる口上は精々この程度、山寺に駆け込んだ限りはうなぎの本性、黙念先生、もろ助に関する一切合切を吐露すべきかや、この場に及んでまだ踏ん切りつかぬまま、そうよ、駆け引きなしで突き進んだにもかかわらず、最期の一線が越えられぬ。理由は簡単じゃ、いくら誉れが高かろうが公暗和尚に全幅の信頼を寄せてはおらん、反対に得体の知れない雰囲気にのまれ、情けないかな竦んでしもうとる。確かに清流の奇跡には触れながらも、人の世に通じるどころかまったく無縁で過ごして来たではないか、世のなりわいも無頓着、かろうじて意気を上げたのは色事、しかも児戯に等しい、いや戯れより低級な刹那の愉悦のみに執着した。人間の叡智を見くびり続けたというより、自然の洞穴に入り浸ったまま一歩なりとも外に踏み出そうとしなかった怯懦が、おのれを腑抜けにしてしもうたんじゃ。黙念先生は霊妙な業の持ち主であろう、しかし、霊長類の極めて進化した人間こそ、計り知れぬ才知と胆力を有しているのでは、さすれば山椒魚の奇跡を越え出ることも夢ではあるまい。井の中の蛙とはよく言うたものよ、これからまみえる人格者に向かい、果たしてわしは牛太郎と名乗れるだろうか。もろ助の頓死を因縁と信じている限り、呪縛からは逃れられん、逃走心の由縁が明快になるにつれ、おのれのとった行動が方策として如何に安易であったか顧みられた。
あんたみたいに峠を越えるとかじゃないわ、ほんの先の麓まで歩を進めたに過ぎん。わだかまるものは死の恐怖に裏打ちされた間延びした不安じゃ。そこに居座る快楽は湿った座布団のように厚かましいが、変に愛着を覚えてしまう、ちょうど情交のあとさきの気分があやふやなようにな。
湿気っていても、濡れていても居心地さえ悪くなければ、ずっと屋敷に留まったろうよ、けどあの乱れはわしの安閑な意識から遥かに飛び出しておる、色欲だけに治まらん、焼けつくに違いないもっともっと血なまぐさい事態が引き起こされるような気がして仕方なかった。で、あとは身の振り方、そろそろ牛太郎として生きるか、小夢になりきるか、混在したまま思考がめぐり、欲が沸騰し、かつ濾過されるのも所在ないではいたたまれん、これから齢も重ねるしのう、そこで黙念先生と公暗和尚のいわば腕比べを画策したわけじゃ。勝手な見物だとも、しかし繰り返すようだが、わしの取る道はこれしかあり得なかったし、あわよくば、法力で謎が解決出来れば幸いよ、もろ助がもらした奇妙な文句、三年の月日を三月だと言うておった、あの意味深な言葉、わし自体が転生を経た世にも不可思議な存在であるのは、実は借りのすがたやまやかしであって、つまり何かまじないみたいな作用を受けており、本当はうなぎの記憶も絵柄をつけるふうに施されたのでは、、、とすれば、海も川も山も地も支配している人間の知恵をもってまずは川底をさらう按配で、清流の秘密をあばいてもらいたい。
一か八かの心境であったけど、こうした秘事とともに生きている実感は決して捨てたもんじゃないわ、絶望の情況に映ろうとも、異常な取り巻きのなかに震える雛の神経が、即座に致命的な結末に堕ちゆくとは言い切れない、見渡す限り秘境であるなら、そのかよわい羽毛に包まれた生命はすべての気流に乗り、あらゆる可能性を体現するだろう、なにもかもが無理なのは百も承知よ、だがのう、たったひとつでもいいではないか、すべては転がっているのじゃ、なに動いておるとな、そりゃ、死んでないなら身動きしよう、死人の魂さえ浮遊しているやも知れんぞ、あんた、寝転がってなんぞ考えたりはせんか、それとて立派な作業だわな、か細い雛の神経とて何かに結びつこう。
日没の想いに浸っている間に山門を背にし、夕闇と慣れ親しみ始めた提灯ふたつを前にした。つい今しがたまでの空の色が技巧によりぽっと凝縮されたような灯火、辺りはまだ暗がりを地に這わせていなかったので、名入れのない提灯は宙に浮いた感じをあたえなかったが、黄金色に火照った表面には細かく横筋がひかれたよう黒ずんでいた。そもそもこの寺に表札はなく通称の山寺で通っておった。
法事の折に幾度か訪れた機会はあったものの、ひとり山門をくぐるのは初のこと、本堂の構えもいたって質素でな、両脇の提灯の反照にひっそり応える障子の風情、仏壇に灯されたろうそくが薄明るく透けていた。瓦屋根を守護する心算かと、いぶかし気でありながら野趣を賞賛しよう木々の枝垂れ、相当数な僧侶の起居する奥行きを一層せばめているので、ほんにこじんまりした印象は今日とて同じ。
こんな暮れどきを訪ねる女人は過分に煩悩を背負い込んでおるのか、はたまた、浄めに逆らう気配が濃く醸されとるのか、こちらから声を発するよりさきに、作務衣の僧ひとり、早速わしの風姿を認め、丁寧な口調でそっと様子を伺う。ためらい勝ちな表情を黄昏のなかにしんみり作って屋敷の名を告げれば、応対された僧きりりと声色がしまって、和尚さまにお伝えいたしますのでとの言を残し、にわかに奥へと身を返す。
不審の念を抱かれるどころか魚心はいとも容易く実ったわい。初手が肝要なのは心得ていたが、こうも滑らかに挙動が運ばれると小躍りしたい気分になってしまう。現に須臾にして取り次ぎがなされたことを鑑みれば、先行き明るく、思い煩った情勢は無下であるまい、屋敷からの通告なり追手なりが素早くまわっているのなら、いくら取り繕うろうと微妙な緊張が走るものよ。ましてや暮れどきゆえにこそ鼠の気振りが察知されよう、闇に紛れた眼光、忍ばせた息づかいは却って仇になる。ここまで臨めば、もはや肝は座り、物怖じは自若に転じておったわ。山寺の意向は捕縛にあらず、煩悶が導きだした図絵に彩りが添えられようとしていた」