大いなる正午3 新幹線の車窓に、富士の山の姿が流れだした頃、花野西安はそれまでの緊張に支配された気持ちを少しでも楽にと目を閉じ、頭の中を真っ白にしてみようとした。 乗車してからずっと貞子から聞かされた内容を反復しては想像を巡らせ、たゆまない事実の結晶へと因果関係を踏まえながら、富士の稜線のように明瞭な解答を模索してきた。だが、いくら可能性を詮索してみたところで、自分の構想でしかない、事実は答えはその先で待っている、数時間後じゃないか、今は先走り過ぎている気力をなだめ神経を興奮を抑えるのが賢明だ。しかし、脳裏を空白に霧散させようとすれば今度はその意欲が増してきて、逆にもとの想像の回廊へと連れかえされてしまう。 西安は不意に思いたったとばかり、座席から離れ洗面所に向かって歩きだした。尿意を催したわけではないが、寝起きから一度もトイレに行ってない。普段から朝食はゆで卵にハム、牛乳、茶粥に季節の野菜をそのままでと栄養には十分気を使っていた。俳優という職種は健康管理が大切である。だが、今朝は何も食べないままマンションを後にし、東京駅で缶コーヒーを買って列車に乗り込んだだけだった。 車両の通路を渡っていく中、あちこちで西安の存在に目を見開き「今の人、映画俳優の、、、」といった鳥のさえずりのような言葉を耳にする。時には握手やサインも求められるのだが、これも大切な仕事だと余程の急ぎでない限りは、自称ファンと名乗る者であろうが、ただ珍しげに歩みよる好奇心の者だろうが、隔てなく愛想を振りまく。寝不足や疲労で気分が重い日も、トレードマークともいえる鼻梁の下に白い歯をのぞかせ笑みは絶やしたことはない。 若い頃からその持ち前の物腰の柔らかさで、女性にアプローチして性的人間などと陰口を叩かれたが、最終的にホテルなりに連れ込めればそれでいい、だからこそ今の自分があるのだと再確認しながら小便をした。思いのほか大量に放尿するいちもつも眺めていると、連日の過密な仕事で最近これ使ってないとふと思いだし、我ながらくすぐったくなるような明るさに感心してしまった。 ああ、やっと緊張が少しの間だがほどけた、自身を愛でるという想念はやはり基本的なものなのか。しかしその使い込んだ陰茎を収納した途端、さっきまでの暗鬱な心模様に再び包まれてしまう。西安は今度はこう考えてみた。事件の意外性に驚き、真相の究明を取り急ぐ、確かに古い知人や川村貞子の親戚らが流血の惨事の渦中にあってとても痛ましいことだと感じる、だけれど地元とはいえ、現在の自分の肌に寄り添うような身近でかけがえのない大事件とまで心深く傷を与えているのだろうか、この焦燥感といいようのない不安な気持ち、いち早く故郷に帰り情報を得たいと願うのは、彼らの悲劇でなく、悲劇そのものの波濤がしぶきを上げる不吉な暗礁が、隠されているのだからではないのか、暗幕にひそむ刺客の殺気のような。 これもひとつの思念であった。上着のポケットから携帯を取り出す。品川駅から出る列車の時刻を報告するからと貞子は今朝の電話で言っていたが、まったく連絡がない。こちらからかけてみる。しばらく接続音がしてようやくつながったと思いきや、不通の案内が流れだした。 それほど不審を覚えなかったのは、運がよければ名古屋からの乗り継ぎ線で同乗するかも知れない。だが、新幹線を降り、地元に直通の特急列車の運転時刻が迫ってきた今も貞子からは梨のつぶてだった。 自分より早く東京を出たのだから、ひょっとすると先発の号に乗って行ったともいえる、それにしてもそれならそうとメールも送ってこないのは、どうしたわけだろうか。 西安はかねてより顔あわせのある貞子のマネージャーに電話をしてみた。 「もしもし、花野です、おはようございます。あの、川村さんから連絡あったと思んですが、そうなんです田舎で不幸がありまして帰省中なんですが、、、はい、えっ、確かに、、、」 相手からの返答には、手触りの悪い言葉が含まれていた。昨日の深夜にマネージャーには身内に事故があって、どうしても地元に行かなくてけない、情況によるがトンボ帰りするかも知れないし、日数を要するかもわからない、親族の様子を確認して、名古屋駅からもう一度必ず連絡するといったまま、まだ何もこちらにはという淡々とした返事であった。次に加也子の実家に電話してみたが、留守番に設定している。 曇りガラスに傷痕をつける不快な軋りが胸の中を走っていく、特急列車はホームにすべりこんだ。 |
|||||||
|
|||||||