ねずみのチューザー7


どれくらい山間を抜けて行ったのだろう。映画に魅入っていたから折角の山河が織りなす風景にとけ込むこともないまま、気がつくと鑑賞後の余韻にひたる気流さへ窓枠わずかにかすめてゆくだけだった。
記憶が封印されてしまっているようなので、逆にもどかしく焦りがちょうど湯気をふくやかんみたいに沸点を知らしめて、ある帰結へのシグナルを送っているのか、ともあれ明快な意識に先導されてない頼りなさは、湯気で窓を曇らせているようだ。
不快感はなかったよ。だってまともであれ、まともでないにせよ、人語で歩み寄るねずみを拒絶せずにこのバスへ乗り込んだこと自体、それが危険な誘惑だとしても僕が欲した行為だからね。模糊とした判断にもかかわらず何らかの焦燥が無人バスの車内に浸透しているのは、乗り心地をどこか微調整されているようで自分の感覚が遊離しているのを楽しむアミューズメントにも通じたから。
で、「卍党」なんて寝耳に水な発言には、半ば含み笑いを押し殺せない拍子抜けしまう戸惑いもあって、増々夢幻の世界にはまりこんで行くんだなって無責任な高揚感を鎮めるすべをなくしてしまった。いつか君に話したと思うけど「仮面の忍者赤影」ってテレビ番組はいくら子供向けとはいっても、荒唐無稽ひとすじなんだけど歯切れはよくて、その時代考証のなさは神々しい境地に達してながらも毎回登場する怪忍者とか怪獣はとても魅力的だったんだなあ。巨大な金剛力士像は電動だったし、球形の飛行物体に到っては現代科学も真っ青の秘密兵器で、なかで操縦している忍者らはきっと蒸せたんだろう、どうみても扇風機としか見えない代物が備えられていた。織田の殿様がっていう時代にだよ。なごむじゃないか。チューザーの存在も確かに信じがたいけど、あれよという間に話し相手になってしまい、そもそもS市の農道をさまよっていた僕にとっては唯一の道づれだったから、これは前回も説明したよね。もう少し厳密に言えば、横転したバスとねずみのチューザーによってはじめて僕は記憶の発火点に触れ、空白に取り囲まれている形を再確認したわけさ。つまり、まわりの空虚を感じることで今という時間がとても生々しいものに発酵していった。それがいい傾向にあるのかどうかは問題でない。ねずみが喋ることを悪夢と見なすのか、奇跡だとあがめるのか、即座に回答出来ないようにね。あのとき大事だったのは常軌を逸している場面にどう向かい合えるかって態度の問題だったと思う。記憶があやふやだったから藁にすがりたかったんじゃなく、バスとねずみの登場が自然と僕の時計の針を進めてくれたんだ。そこでようやく過去に霞がかかっている事実を知り得たし、これからの道行きに対してもまるで遠足に出かけるみたいな浮ついた陽気さがともなうから、心持ちは決して不快じゃなかった。
「卍党」という、フィクションがそうではなくなっている成りゆきを聞くに及んで、ようやく異形の空間を認知する感性に近づいたのも、まんざらデタラメではないだろう。人は絶対の孤独には絶えられないんだ。ねずみもねこの大佐も僕にしてみれば救いだったに違いない。記憶の曖昧さなぞ、舞台にかかる暗幕のようなものだよ。バスに軽々と乗車出来たのも、目のまえで派手な横転というパフォーマンスを演じてくれたから、、、大体そんなところかな。「卍党」に度肝を抜かれた装いで振るまうのは、狂気を我がものにせんが為の気分転換かな。
ちょっと悟りすましたふうに聞こえるかもしれないけど、それは誤解だよ。なぜなら第一幕は開いたばかりで、内心はとてもひやひやしていたんだ。僕が知り得たのは事実とは異なる現状であって、知り得たというよりかは、そう解釈せざるを得なかったといったほうが正しいもんな。だからこそここがスタートラインじゃない。これからが始まりだと思ってほしい。
作られた映画にひたる器量はあっても、流れゆく風景を味わう余裕なんてまったく持っていなかった。それで窓が曇ったんだって、これすごい言い訳だよね。おそらく都合の悪い過去を思い出したくないに違いない、記憶なんて案外と操作しやすい装置のような気がする。
とはいえ、やっぱり欠落しているんだなあ。S市にどんな思いで向かったのか、あの離婚状を突きつけた女性が誰だったかよく思いだせない。まあ、思いだしたくないんだろうから仕方ないけど、あれは偶然などではなく、むしろ必然であるのはチューザーもそれとなく認めているから尚更もどかしいじゃないか。そうだね、君なら端的にそう問うだろう。
「いったいどんな意味あいがここに潜んでいるの」って。
同感だよ、出来ることなら早々にここから立ち去りたい気持ちがないわけじゃない。でももうわかるだろう。旅には最低ふたつの道があるんだ。日帰りのような気軽に散歩気分で出かける旅、そして反対に行き先を定めない無目的に近い、長い旅。窓の曇り具合からみてどうやら長いトンネルにくぐる予兆をしみじみ感じてしまう以上、残念ながらすぐには帰ってこれそうもないや。二階の軒へ吊るしといたてるてる坊主によろしく言っておいてくれるかい。
「雨の日もたまには微笑んでいてくれるとうれしいから」とね。