ねずみのチューザー62 「現在の本部はX1の処置に戸惑っている。提供者として発言権はおろか、計画の進行に参入することなどあり得はしないが、ドクトルKから特別の許可をもらい分身と対面させてもらった。過酷な伝達であるのは承知してもらいたい、X1よ、もう時間はないんだよ。それは誰よりも知っていると思うが、わたしの口から言うにはいたたまれない。これはわたしの分身的な他者に対するレクイエムだ。おっと、勘違いしないでもらいたい、わたしは金魚を憐れんでいるのでなく、その器を嘆いているんだ。きみはもはやわたしとは別人格として存在しているから、尊厳を無視したりはしない。ただ、計算の狂いから少々、尊厳の在り方を考えさせられてしまった。もうひとりのわたしが異国で生きているごとく、さまよえる旅人となって、しかも自由などという目に見えない実体は微塵もなく、強烈な時限爆弾を抱え、時空に宙吊りにされている。チューザーの裏切りともとれる行為はそんなX1に向けた最期のはなむけだったのだろう。彼もまた己の寿命を見極めていたと思う。半ば役職をと言ったのは実のところ、憐憫の情を語るためだけでなく、きみの行方に関するわたしとしての模索を語っておきたかったからなんだ。この映像発信は本部の認可を受けている。隠れ里に居残る反体制の幹部も今頃、瞬きもせずに観いいっているだろう。ここ数日間で大佐の不動の地位は大きく傾いてしまい、もう支持者は白眼視どころか追放の憂き目に合う情況まで変革してしまった。きみが仮想を生き抜いた証として知人にことの次第を書き送っていたのも了解している。脳内の溶解と戦うようにして時間を忘れ、無心で言葉をたぐっていた。わたしのこころはひどく揺らいだ。どうにかしてチップを制御装置の延命を計れないものか。きみが知人に向けて綴り続けている間、体制はミューラー大佐を放逐してしまい、すでに無用の長物と化した意識を呼び醒ますことに意義は求められない。願わくば覚醒ないままにX1に身体を譲り渡してもらえるなら、、、かつて独裁的な手腕で粛清も厭わなかった大佐ではあるが、長年の功績を称える意味あいからも、このまま自然消滅していまうように、記憶の隅々まで霧の彼方に掻き消えてしまうように、もしそれが可能なら。大方の願望は雪崩を見届ける面持ちでそんな空気に包まれていたそうだ。しかしドクトルKが思案するまでもなく、残念だがチップの寿命は元来限られた性能しかあたえられていない。我々の身勝手を聞くに及び、激しい憤りを感じるのは重々分かっている。X1よ、きみはよく耐えてきた、そしてよく戦ってきた、あとは静かに眠ってほしい」 思ったより簡潔に言い切ったものだよ。提供者の言い分はあらかじめ予測していた結末をなぞったに過ぎなかったから、それほどの衝撃は感じなかった。それより、僕という曖昧な人間に対して尊厳の目線を配ってくれたのがやはりうれしかった。時間とのせめぎ合いにも疲れてきたところだったし、僕に関わった者らがみんな死んでしまったあとには、まっすぐな諦観が横たわっている。 僕は提供者からの伝言を確かにレクイエムとして受け止めたし、君に話すべく物語も終焉を迎えつつあった。モニターからの続く一言を聞くまでは。 「選んでくれないか。ミューラー大佐が目覚めるのを待たず自決するか、それとも、、、」 「それとも」 折角はかない人生に最期の灯火を見いだしたこの意識が、乱れた。 「溶けてなくなるのが自然なんだろ、ミューラーの覚醒はそんなに厄介なのか、僕に能動的な死を示唆するなんて何というひとでなしなんだよ。ああ、そうかい、なるほどな。見えてきたぞ、これは僕に対する命令なんだな、断ればこのバスに攻撃を仕掛けてくるつもりなんだろう。はっきり言えよ!」 「わたし個人の力量ではどうにもならない。すべては本部で決定された。見苦しい大佐を復活させることなく潔く死んでくれ」 「隠れ里の連中も同意見というわけか、あんたら巨大な権力のまえには僕なんか石ころにも充たない存在なんだろうが、そうと決まれば抗戦しかない。どうせ知人に綴った文も抹消されてしまうとみた。それにしてもあんたらの実験精神には感心するよ。最期の最期まで僕を実験材料にしたわけだ。殺すならいつでも殺せたはずじゃなかったのか、それを生き血の一滴まで絞りとろうとする。 『僕は死ぬ、、、君らは僕を愛さなかったし、僕は君らを愛さなかったから。僕は死ぬ、、、僕らの関係は元へ戻らないからだ。僕は君らに消えることのない疵を残すだろう』 ルイ・マルの鬼火のラストだ。あんたの用件は分かったから、ルイ・マルを放映してくれ」 そうつぶやいてから、空になったサザエの甘露煮の瓶詰めをモニターに思い切りぶつけてやった。光が途絶えた。 上空にヘリの気配を感じてしまう。奴らは迅速に行動するからな。得体の知れない衝動に操られるまま、運転台に並んだありとあらゆるスイッチやボタンをひねったり押してみたりした。かつて体感したことのない振動がバスを動かす。ドアが開いてすぐに閉じる。デジタル表示の数字が真っ赤な色をして猛烈な勢いで秒読みを開始した。ハンドル下の四角い画面に「BOMB」と大きく点滅し、車内にバッハのトッカータとフーガニ短調がしめやかに流れだす。 僕は記憶の貯蔵庫に降りていった。恐る恐る、だがとても興味深い眉根を意識しつつ、自分の表情を鏡なしで眺めている。蜘蛛の巣が嫌らしく首にまとわりついたけど、その闇に張り巡らされた澄んだ細い糸を愛おしく感じ、苔子が忍んでいた床下を思い浮かべた。そして、チューザーが言い残した「日暮れまでには」という文句は反対に白夜を連想させ、夜露に濡れた蜘蛛の糸が薄明のなかに溶けこんでゆく光景へと重なりあった。 |
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