ねずみのチューザー60 谷底まで反響した銃声の名残りを半ば放心状態で耳にしたまま、その戦闘がもたらした空気に特別な異変を感じなかったのは、現実からの攻勢を辛うじて回避させた楽観が過剰な寂寥にすげ替えられたのではなく、あくまでこの山々に囲まれた孤独と自由が森閑とした面持ちを維持していたからだ。 懐かしささえこみ上げてくるバスの後部がすでにかいま見えだしていた。大佐ではない僕の胸にひろがるのは親衛隊の死を予覚していながら、微塵の温情も口に出せなかった悔恨に突き刺されている痛みと、あえてそれを過去へと急速に葬ってしまいたい、焼けつくような苦みが消えてゆく鎮静だった。 車両に向かって進むにつれ、ここまで逃走してきた意味も同じく消えてしまう気がする。残照に応えながら泰然とした格好で停車しているバスに目的はあるのか。 ひと際大きな風がよぎっていったとき、左に山肌から岩清水がしみだしているのを見つけた。光線を受けきらめく透明さがまだそこに残されていると感じ、山の冷気が出迎えてくれたなんて勝手に思いめぐらせた。土を押し流したところどころは茶褐色の岩が見られ、より清らかな山水だと口をすすぎたくなった。のども渇いていたけど、安穏な思い出がこのバスには詰まっている気がして、そうだよ、リポビタンとかプラッシーやファンタグレープを一気に飲みほしたくなっていた。だが、とにかくチューザーと顔を会わせるのが先決だ。それに銃撃に倒れた親衛隊も気がかりだし、山びこさえ帰ってきそうな大声で僕はねずみを呼んだんだ。 いよいよバスに真向かうと、不意に肩に飛び乗ってくるあの軽やかな感触を期待した。けれども応答はなく、渓谷の音が小さく鼓膜に侵入して、視線が泳ぎだしたそのとき、山肌から溢れたらしい水たまりに不純な影を発見した。歩幅を急かす必要などなく、それがねずみの死骸であるのは瞭然としていた。 「チューザーなのか、、、」 水たまりは洗面器ほどで深みも同程度だったが、ねずみはあきらかに溺死の様相で沈んでいたんだ。チップのなかにだって過去に見聞きしたねずみの情報くらい保存されているだろう、この隠れ里に来てからも他の種類だって知ったし、何より僕はチューザーの顔を忘れたりしない。あまりの事態にめまいを覚えたけど、洗面器から水をすくう手つきで死骸を取り出した。灰色の毛並みは水分を含んで炭みたいに黒ずんでいた。僕の思考はほぼ停止していたと思う。だが、立ちすくむことなく踵を返しヒツジのいる場所へと小走りに駆けていったんだ。 ヒツジはその顔つきでことを悟ったらしく、黙って首をうなだれた。 「傷はどうだ」そうつぶやくように、頼り気ない言葉が出る。半身を起こしているのも限界に見えたヒツジはうなだれた首に誘われながら斜めに倒れこんだ。わずかだけど被った面から人肌がのぞく。僕はねずみを土のうえに置き、すでにほとばしった電流の驚きと痛覚をなだめる調子で訊いた。 「もげ太さんなんだろう、どうして、、、苔子を看病するよう言ったはずじゃないか。いつの間にヒツジになんか扮してたんだよ」 「申し訳ありません。大佐殿」 「僕はミューラー大佐をまだ呼び戻していない、よく承知していたのだろう、もげ太さん。何故なんだ、何故逃亡に加担してくれたんだ」 「任務に対する服従だけではないのです。わたくし自身もこの里を離れたかったのです」 「苔子はどうなるんだよ。あなたは苔子を愛していたはずでは、、、」 「この世には色々な愛があるのでございます」 もげ太の顔色が急変した。「しっかりするんだ、あのバスは秘密兵器なんだろう、なんなら僕がバスを運転してくるから、それまでふんばるんだ」 僕はヒツジの面をはずし、その好青年がつくる最期の細やかな笑みを見つめた。口角が糸先で吊られたほど上げられると、ゆっくりとどこか遠くを眺める目線を僕に捧げてくれた。それがもげ太の生命だった。 「もげ太さん、、、どこまでひとがいいのやら。でもあなたがこの里で一番不思議だった」 喪に服する猶予は哀しいけどこの山にはなかったから、僕はもげ太の胸にチューザーをそっと乗せ、日暮れに挑む勢いで再びバスへと走り、ドアに手をかけたんだ。信じられるものは独断であり、勘でしかなっかった。 バスは確か自動走行をしていたし、食料も蓄えられているはずだ。それにこの車両はガソリンで動いているんじゃない、どんなエネルギ?かは分からないが、とにかくガソリン特有の匂いを今まで感じなかったことを思い出した。ドアは簡単に開いたよ。ただ、室内にも似た閉塞感は夜の気配をすでに漂わせ始めており、明かりの不十分なのは外気から逃れられた安堵を迎えるに均衡がとれず、却って窓枠にへばりついてくる夜気に接する本能的な恐怖を増幅させてしまった。早く運転席の装置を点滅させないと、この世界は暗黒に支配されてしまう。春の夜はとても穏やかだけれど、僕のこころは死んでいった者たちに見守られていると、言い切れるほど傲慢ではなく、また悪霊が跋扈しているなんて物怖じするつもりもない。願いはひとつ、闇に視界がさえぎられるまえにどうにか、野性から逃れた居場所を確保しておきたかったんだ。 ハンドルの脇に密集しているスイッチを片っ端から触ってみる。空調が可動したのが確認でき、続いて何やら赤いランプが点灯し、数字がデジタル表示される。比較的大きなレバーをまわせば、ヘッドライトがまばゆく放たれ、宵闇に包まれかけた山間を煌々と照らしたんだ。室内灯の明かりも各所判明してきたよ。きっと運転マニュアルもあるに違いない、走行まで焦るのは禁物だと冷や汗を拭いながら考えてみてから、懐にマッチがあるのを気づいた。これはおくもさんがあのとき渡してくれたものだ。 ようやく座席に腰かけ、少しだけぼんやりしてから例のジュースを探ってみた。あった、あった、缶のファンタグレープでのどを潤すと、疲労と一緒に炭酸が胃から戻ってきたよ。 |
|||||||
|
|||||||