ねずみのチューザー59


木々の狭間を隠れ蓑にしてみたところで無防備でしかなく、忘れた頃にそよぐ風が木立を縫い、緑を揺らすように僕の姿勢にも軽やかなものが吹き抜けていった。極度の緊張に襲われているはずなのに、妙に落ち着いていられるのが不思議だったよ。思えば、屋敷内にどのくらいこもっていたんだろう。僕という意識が芽生えたときには早々にバスへ乗車して、みかん園や鏡面のようだった妙心池に立ち寄った以外、あの見事なセットのなかに逼塞していたからな。こうやって山中に誘われ、紛れこんでいるの現状にもっと解放感を覚えてよかったははずだが、脳内に自由を見いだせない限りはやはりただの風景でしかない。
そもそもミュラーの記憶を封印させることと、あんなふうに時代ががった演出はどこにその必然性が結ばれているというのか。甲賀の忍者、武家屋敷ともいえる古風な造り、着物で肌を包んだ女人たち、その言葉遣い、歴史を遡ったとしか形容出来ない雰囲気のなかで果たせる意味などあり得たとは信じがたい。
今になって訝ったりするのも変だけど、自ら夢見の世界に同調してしまった負い目というか、極めて脆弱な影と寄り添ってこなければならなかった日々が、すべてを脚色していたとも言える。だから、ミュラーたちの趣向についてあれこれ詮索してみても、所詮は僕の記憶が風化していく過程を反対側から覗きこんでしまうだけだし、なにより風景に対するまなざしを純化させるためには、最適の環境だったと思う。
屋敷でも時間は何かに塞き止められているんじゃないかと感じるほどに緩やかだったが、この生死の境目に置かれた情況のもとでも同じ感覚を延長させているみたいだった。狙撃されるのか、捕縛されるのか、大佐の意識が危機に目醒め、僕の脳髄をはかなく希釈してしまうのか、いずれにせよ雑草を踏みしめている足の裏に感じる現実味は、大地もまた悠久の流れとともに移動していたのだという意想と静かに、だがある種の強靭さを草木や上空に語らいながら重なり合っていた。
おとりとなったヤギの安否に神経を使うよりか、僕は彼ら親衛隊の心境をよく理解してしない虚しさによって、恐怖も不安もまるで段ボールにでも詰めこまれたように整理され、あわよくばどこかにそのまま送り届けてもらいたかった。きっとヤギもヒツジも銃弾に倒れてしまう。大義のうえでは党首とも元帥とも呼称される身分には違わないが、すでに失脚の兆しは著しく、いくら上官に心酔しているとはいえ、明治天皇と乃木将軍でもあるまい、みすみす命を棒に振る必要があるというのだろうか。申し出た時点で頑なに拒んでおけばよかったなどと、又もや後悔してしまうのだったけれど、虫のいい孤独感が衣をまとったのを自覚してしまった限り、苦笑は冷ややかな感情をともなわず、逆に屹立とした彼らの敬礼のかたちに来るべき先行きを見て取ったのさ。笑みなどこぼさなくていい、そんな不自然な領域に温かい手触りは望めないんだ。親衛隊の枠組みは衣そののものを拒否していると判じれば、彼らが役職に殉じる態度は僕の曖昧な部分を補填してくれているかにも思えてくる。
「ヒツジよ、おまえは僕がまだ大佐の記憶を取り戻しておらず、ぎこちない演技を見せているだけだと知っているんじゃないのかい」そう、問いたい気持ちを抑制するのに増々雑草を踏みしめているのが分かった。彼らの殉死は大佐に捧げられるのであって、データX1に従属するのでは決してない。
陽の陰りの推移を知るほどもない短い物思いだった。しかしヒツジの呼吸が微かながらに隣から聞こえているようで、ほぼ予感とやらが適中するのを痛感した。
銃声が一発、間を置かず続け様に激しい銃撃戦が開始された。後方から山道に向かったヤギがここからでもはっきり識別出来る。更に距離をとった箇所からキツネの面々の姿が四人うかがえ、じりじりと間合いを狭めつつ身構えてヤギへと発砲していた。すでに応戦の姿勢ではなくなっていた親衛隊は銃を握った右手を垂れ下げ、両足が覚束ないまま今にも倒れていまいそうだった。ライフルを手にしたキツネが余裕ある物腰で瀕死の獲物に狙いを定めるよう銃口を宙に浮かべている。ヒツジは援護にまわると思いきや、同朋が撃ち死にしてゆくのをただ見つめているだけだった。キツネらは全員ライフルを携えているが、とどめを差すのはそのうちのひとりらしい。おもむろに距離を詰め、確実に引き金を弾くつもりか。ほとんど戦意を失ったヤギの足もとがもつれるのと、上半身にみなぎる殺意を降臨させたのには唖然とさせられた。十分に狙い撃ち可能なはずだったのに、相当近くまで歩みよった不遜が仇になり、いかにも最期と映っていたヤギの鮮やかな手さばきから銃声が炸裂し、胸の真ん中を見事に打ち抜いたんだ。よろめく間もなく相手は地面に突っぷした、即死だよ。
呆気にとられたいたのは僕だけじゃない、残りのキツネが一斉にライフルを向けたとき、ヤギは二発目を撃ったがさすがに前の銃撃で燃えつきたか、弾丸は虚空に消え、狙撃者たちの全面攻撃に身を躍らせながら果てた。
ヒツジの呼吸がはっきりと聞き取れたとき、彼は猛然とキツネらに駆け出し、すぐさまひとりを撃ち倒すと、くるりと反転する勢いで太い幹のうしろに身を隠し、数発の弾丸を発射した。もう狙撃者は距離を縮めたりせず、同じく木立へ潜もうと試みたが、その隙をあたえずに三人目に命中させ、残されたキツネを窮地に追いこんだかに見えた。が、その姿は僕からは目視出来ず、互いに山道からはずれてしまっていた。
「大佐殿、さあ早く逃げて下さい」ヒツジはありったけの声を振り絞った。「道には出ないよう木の間を」そう叫んだあと、敵が態勢を取り直している辺りに発砲する。思わく通り銃弾を浴びせた草むらからせわし気に撃ち返してくる。ただ、短銃の不利がヒツジの決意を早めに違いない。いきなり道に飛びだし一気に勝負に出た。キツネにしてみれば得策だっただろうが、仲間を一気に失っていまった動揺が勝ってしまい慎重な構えは作ったものの、突進してくる相手に照準をあわせる冷静を保てなかったみたいだ。
まず、突撃者の弾がキツネの頬をかすめていった。反射的な応戦は不運なことにヒツジの脇腹をえぐった。がくんと膝をおとしたまま、傷口をかばうことなく両手でしかっり銃を持ち、さっきのヤギ同様に詰め寄ったところから渾身の銃弾を連射したんだ。キツネも激しく反撃したけど、その額は割れ血が吹き出し、両肩へも受けた弾によりライフルを操れなくなっていた。前のめりの格好で今にもまっぷたつになりそうな面から流血を地に滴らせる。僕はとてもじゃないが逃げることなんか無理で、目が点になるまでこの撃ち合いを見つめていた。
ヒツジはかろうじて上半身を起こしていたけど、僕がどこにいるのか確かめられないらしい。驚かさないよう彼に近づき、「大丈夫か、傷は腹だけじゃない」太ももの付け根からも出血していた。
「大佐殿、どうして逃げてくれなかったのです。敵はまだ他にいるかも知れません」
「あんな少人数ってことはないだろう、だがな、おまえは誇りある私の唯一の親衛隊なんだ。一緒にバスまで行こう。もうチューザーも着くころだろうから、まずは治療だ」
「いえ、私は助かりそうもありません、内臓まで三発撃たれています」
「気をしっかり持つんだ。チューザーを探しにいってくる、ついでにバスに乗車出来るか確認してみる。それまでここを動くんじゃない」
僕の目からはぼろぼろと涙があふれでていた。ヤギとヒツジが倒れたことが引き金だろうけど、涙の理由を尋ねる無粋なまねだけは敬遠した。