ねずみのチューザー56 西に傾いた陽は僕の横顔へ歓びを注いでくれた。熱をはらんだ一陣の風はより情感に接した。気分は決して悪くない。が、平坦な野から草木の密集した山道にさしかかった頃、獣の類いには似つかない余計な気配を後ろに感じたんだ。案の定、付け人が居たみたいだな。 気分の善し悪しには影響ないと胸に言い聞かせてみたけど、腹の底がむず痒いのか痛いのか、よく分からないうちに混乱はやって来た。予測しておいた通りの展開だったので、今更とまどいはなかったが、一歩踏みだしたところで旅路が損なわれた失意は、まるで瘴気となって現われ、新緑を汚しているようだった。 「誰だ、姿を見せなさい」 あくまでミューラーの姿勢を保持したままで敵対しなければならない。すると針葉樹に群がるように茂っていた羊歯の影から二人の男が路にさまよう按配で出てきた。 「畏れながら、我らを同伴していただけないでしょうか」 二人はヒツジとヤギの面を着けている。さっき親衛隊を募った際に忠義を果たしたと思われる者だ。 「必要ないと言っても付いてくるのだろう。まあいいさ、好きにするがよい」 実際どうでもよかったんだ。気配を悟らせないよりかは、こうして見張りを連れ立っている方が開き直れる。二人が本当に親衛隊なのか実証することなど意味はない。僕の返答に誠意を示すつもりか、揃って面を剥ごうとしかけたとき、こう言ってやったんだ。 「被ったままでよろしい、素顔を見せてもらっても私は動じない」 ヒツジとヤギは一瞬気勢がそがれた様子をしめしたけど、「はっ」と、よく通る声を揃え背筋を伸ばし命に従った。 座敷に集結した全員の顔を注意深く眺めなかったように、この二人も僕にとっては見知らぬ風景となってもらえば丁度よかった。彼らが仮面の中からこちらを凝視しようが、すでに態度が定まっている以上どこにも火照りは生じない。まだ燃え尽きたりしてないけど、半端な視線に惑わされるほど初心ではないし、平温だって高くなっているような気がして(これは例えだけどね)耐熱性を発揮したんだ。虚空に跳躍するにしてもエネルギーは大事だからね。 「ところでおまえたち、私の行き先は知っているのかね。それとも地獄の果てまで伴うつもりだろうか」 ミューラーの語気というよりも、どうやら僕の地が踊り出た。 するとまたしても口を揃えて、「バスに乗りこまれるのでしょう」二人はそう答えたよ。 「なるほど、私はバスでここまでやってきたのだからな、バスで帰ると判じたわけだな。ではその先はどこを目指す」 「いえ、それは、、、」ヤギの方が申し訳なさそうに言葉を詰まらせる。質問を投げかけたまま黙っていると、やや間を置いてからヒツジの方が、「どこへなりとも」と、いかにも実直な声を響かせた。 彼らが監視役だとしても僕は欺瞞に満ちているとは思わない、むしろ自分のもの言いに陰険な性質がこもっているようで、二人が気の毒になってきた。 「おまえたちの忠節はよく分かった、名前はいいがこれまでの所属と階級を申せ」 ヒツジが先に答えた。「陸軍中野学校、義烈空挺隊、少尉であります」 脱力にも似た感覚にとらわれたが、下手に真意の追求はせず、それはミューラーの仮面を剥離することに及んでいるから、泰然とした姿勢で臨まなくてはいけない。 ヤギが続く、「同じく陸軍中野学校、F機関、少尉であります」 「よろしい、二人は本日より親衛隊長に任命する。武器は所有しておるのか」勢い余ってつい増長してしまった。 親衛隊長らは笑みとも哀しみともつかない微妙な顔つきで、懐から短銃を取り出した。自分から言い出しておいて底気味を悪くしていまうのも仕方なかったが、なるだけ不穏な空気は避けたく、確かに先行きが暗雲で包まれているのは承知していたけど、また死闘が繰りひろげられるのは辟易で、眉間にしわが寄るのが感じられたから、あくまでもこの二人は護衛なんだと、願掛けでもしたくらいの心持ちに治まりたかった。そのとき不意に閃くものがあったんだ。そこで、こう話した。 「これよりは必要最小限の会話以外を禁止する。追手に位置を探知されないが為と、精神の統一を兼ねている」 「了解いたしました」 まったく大佐を演じるのは至難の技だよ。ヒツジとヤギは純朴そうで僕を疑ってみることなど微塵も顔にしないが、運良くバスに乗車出来たとしても、それからの指標をどうやって説明すればいいのだかろうか。僕の脳にはミューラーは宿っていないのだ。仮に彼らがそれを知っていて、来るべき日までの補充として警護に尽くしているのなら、尚さら影武者のごとく大佐に徹しなければならなく、会話はぼろを出してしまう可能性が高いから、とにかくバスに到着するまでは言動を慎しもうとしたんだ。 日暮れまでには、、、チューザーはそう自信あり気に言い残し僕の肩から飛び降りていった。小さく折り畳まれた紙にバスの在りかを記して。 |
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