ねずみのチューザー57


夕陽の赤みは木々の間に染みこむようにして山道を照らしていた。時折吹きつける風に揺られた草木の緑は朱と交じりあい、日没まえの切迫した空気をどこか間延びしたものに変えている。澄みきっていた青空はいつしか鈍い色をした雲を呼び寄せ、残照に移りゆく心構えを見せているようだ。
紙切れは屋敷を出た直後に開いただけだったので、精確な道のりには覚束ない。どうしたわけか、ヒツジは僕のまえを少しばかり距離をおいて歩いているし、ヤギも同じくらいの間隔で後ろについている。前後を固めてくれているんだろうけど、ヒツジの方は目的地を把握しているとでもいうのか。いや、僕は彼らに行き先を明瞭に伝えてはなく、ただバスを目指していることは了解しているみたいだが、この配列からはどうやら規律のようなものが匂ってくる。残念ながら見知らぬ風景とは都合よくいかなかった。
僕から会話を禁じた手前、情況を説明しろというのも変だったからしばらく様子を見ようと決めた。そして堂々とチューザーから渡された地図を眺め、行き先へとこころ泳がせる。
両脇に山の斜面を見届けながら進んでいたが、やがて景観は開け右手に渓谷らしきうねりが現れ、山道も同様に曲がりくねって勾配を感じ始めたんだ。なるほど麓からさほど遠くない箇所に川の流れが細く記されていて、ちょうど山あいを縫いながらこの道と連なっている。地形はいたって簡略に書かれていているなか、この先には大きさは分からないけど、二角堂という屋代か祠みたいな建物がその名と並んで黒丸でしめされていたので、少々胸が高鳴ったよ。二角堂って本当にあったんだな。
地図によるとそこを大きく右折し、二またに分かれている片方の山道の奥まったあたりでバスが待機している。渓流の音が耳をそばだてるまでもなく聞こえてきたところ、これまでの道のりから推量してあと小一時間くらいだろうか。灌木が視界をさえぎっているので水流は間近に出来なかったが、山腹へ登りだした傾斜の加減といくらかの曲がり道が、冴えた渓谷のすがたを約束している。
舗装のない道幅は確実に狭まっており、林道であるとしてもかなり走行が厳しく思われ、土ぼこりが舞っていない代わりに何やら妖し気な煤煙が漂っているふうだった。天空からの明るみは無関心であることを保守しているのか、前方をゆくヒツジの足取りを単調にし、胸にわだかまっていた懸念を風の向こう側へ送ろうと試みているのだけど、実際は数歩さきに案内人が存在するように、澄んだ霊気には包まれなかった。
風景がもしキャンバスや写真のフレームだったなら、僕は今どこを切り取るべきなのだろうか。それとも枠組みなど捨て去ってしまい、いっそこの脳内にならい平面であることに拘泥せず、自在なパノラマを時間と共有するか、選択肢の方が僕に先んじているようにも思えてくる。だが、それより彼方へと神経を手中させてみても風景はかわり映えしない。本当にきれいな瞬間は立ち止まってくれないのだ。別に汚くても同じなんだよ。僕はただバスに向かえばよい。
君には無目的な行動としか思えないだろうが、人里離れた山道を分け入る心境を形成しているのは、木立からさまよい出た草いきれを嗅ぎとっているかどうかもあやふやな自由と、斜陽が織りなす歩行の無為に他ならず、それは地面を這っている冷笑すら留め置かない影であり、山峡を被い尽くしている乾いた温もりだった。しみじみと実感するには風の向きや川の流れが、僕から上手に逃げ出しているようだよ。
どうしてこんな意想を持つのかっていうと、ふとよぎったデータX1についての霊妙な成りゆきによるんだ。チップに埋め込まれた情報が青年から抽出されたものである限り、ミュラーの肉体に植えつけられているのは断片だろうし、現にチューザーからそう知らされているから、この記憶をなくしてしまったとしても決して本体の青年が損なわれるわけでも、消滅してしまうのでもない。あくまで仮想としての意識が用済みになるだけじゃないか。とすれば、僕は不思議の森に迷いこんで二度と思い返すことない夢を見たに過ぎないだろう。夢想において死ぬと考えてみても無論やるせないが、バスに乗りこんだときから今まで随分ファンタジックな体験の連続だったから、これ以上浮き世離れした展開はまさに負荷が大きいよな。
夕暮れの遊園地から帰途へつくような感覚はここに集約されそうだ。ただし、本体の青年がどういった処置を施されたかまで及びはつかないし、安否を保証する手立てさえ誰にも問えない。ミューラーやドクトルKとやら、それに学者や医師団らの良心を信じるしかないよ。と、したところでこの仮想意識からたどるのはどちらにせよ不可能だけど。
太陽が沈むように僕も山の向こうに帰るだけさ。あまりに自然すぎて胸の温もりさえ忘れてしまいそうだけど、チューザーが言った「日暮れまでには」という意味あいは、夜を指していないと思う。
あれこれ思考がめぐったりしたが、朱を帯びたひかりが辺りを反透明な色合いで敷きつめていく推移はやはり脳裡に勝っているのだろう、僕は現実的には帰る場所がなかったけど、小さな秘密基地みたいなところにもぐりこみたい欲求を捨ててしまうほど悲壮感は抱いてない。ヒツジとヤギも一緒のことだし、もう少し遊戯に甘んじてみよう。
勾配の重みがひざに微妙な心地よさをあたえてくれたのと、道なりが右に沿っているのを覚えた頃、新たな危険が足の裏に突き刺さる。そう、追手が現われないのはどうしたわけだ。山陰に消される自分の影に薄ら寒い棘が忍んでいるような気がして、雲間に隠れつつもいよいよ残照となった空の色が、まるで暗調に移りゆく効果を発揮しそうで冷笑は本物に近づいていった。バスは多分秘密兵器だよ。だから、捕縛なり攻撃は乗車するまでに仕掛けてくるに違いない。親衛隊に任命した二人は果たしてどう出るのだろうか。遊園地はあとにしたけど、宵がせまるまえにどうやら幽霊屋敷の門をくぐる羽目になりそうで、背中からうなじにかけて鳥肌が立ってきたよ。作務衣の袖に石ころが残っている気がして、思わず手を突っ込んでみたが、砕けた砂利に触れただけだった。それはさっき親衛隊の銃を所持しているのを確認した反応かも知れなくて、僕は戯れることはあっても死闘はまっぴらだったから、自ら迎撃に徹する場面は訪れないだろうが、ヒツジらは任命された以上、血煙をあげる光景は避けられないとみたんだ。