ねずみのチューザー55


チューザーの語りからすれば、大佐の理念は独裁的なスタンスを回避しているふうであったが、ドクターヘリを乗りまわしたり、科学者を動員し無謀な実験を行なえる権力構造には、たとえその心境に無常が横たわっていようとも、やはり専制の影が濃厚に漂っている。
目醒めるよう促されてみて、確かに謎はひとつの帰結を迎えたわけだけど、それまでの不透明な脳に甘んじることなく常に懐疑を忘れなかった意志が効を為したのか、制御装置は安定を保ったままで一朝一夕にはとても意識が転換されると感じられなかった。ミューラーへの覚醒とは僕の消失を決定するんだろう、それは自分の思念や感情がこの世からなくなってしまうことを意味するんだ。新たな意識がどんな格好で脳裡をめぐるのか想像もつかないし、眠りのなかに夢見を置き去りにしてしまうように、もしくは夢に落ちてしまう意識が隔絶されたものであるように、僕という現象はもうどこにも探りあてられなくなる。
所詮チップに組み込まれたデータX1か、、、しかし、装置の誤作動を発生させる闘志は神奇な猶予をさずけてくれているに違いない。そんな放恣が全身にみなぎっているのはあながち驕りだけでなかった。信じる術は盲目だったが、脳に棲みついた僕の命はひかりを放ち続けていたから。
声高にミューラーを振る舞って、我ながら演技に陶酔しながらもこころの隅ではそんな不安に苛まれていたんだ。が、ぬれ雑巾で怖れを拭ってしまう気分は、不安の侵蝕を容易には許しておらず、今という時間を刷新しようと磨きをかけていた。
「全員参列せよ!」
開け放たれたふすまの向こうから担架で運ばれてくる苔子を見つけ号令をかける。監視役やら護衛役は音もなく座敷へ現われるとそれぞれ面を外し、僕の言葉に従った。どの顔にも見覚えないのは当たりまえだけど、彼らの容貌に特別注意を払ったりもしなかった。十数名ほどの佇みには配下としての忠節が規律に守られているだけだったから、大佐を演じている僕からすればどこかよそよそしさもあったのだろう、ひとりひとりの顔つきを見分する使命は反対に距離感をつくりだしていたよ。
やがて担架に乗せられた苔子が横に迫ってきた。目配せするより早く担ぎ手らは歩を止め、僕の指示ともつかない態度を察知し、さながら負傷兵を慰労する情況へと運ばれる。僕はのどの奥から絞りだす調子で、
「もう自由の身だ。今後は養生に専念してほしい」と、薄目をしている苔子に伝えた。
床下で見せた蒼顔にも近かった面は無為な明かりで囲まれ、黙した配下たちの息遣いも静寂に掻き消えている。緊縛の空気は開け広げられた座敷から四方に流れゆき、かつて女体が躍動した情熱は想い出となってその瞳の底に透けて映るようだったけど、遥か彼方に遠のく意想がこの場を厳かに、そして緩やかに鎮めた。
「主様、、、」血の気をまだ戻せてない唇が微かに動いてそう呼んでいるよう耳にした。憔悴しきった表情だったが、小さな一点の微笑は目鼻なのか口もとなのか判別しかねているうちにそっと届けられる。僕は無言のまま苔子を優しく見返していた。いや、きっとそんな思いを描きたかっただけだ。僕の頬はこわばっていたように思うし、皮肉にもミューラーの擬態がそんな接触を冷淡に導いていた。
けれども苔子の横顔には春風でなぞられたに違いない安堵が色づき、一枚の葉が静かに震うようまぶたを伏せた。
「闇姫の役目は終わったんだ。きみは狂ってなんかいない、、、」口にしかけてみたが、言い出せない。ミューラーとも僕とも割り切れない気持ちのままで。
軽く首肯したのが合図になった。担ぎ手は再び任務に帰り、苔子の姿は僕から離れていった。二度と会うこともないだろう。後を追う黙礼にすべてを込めているもげもげ太を見送りつつ、深いため息をつきかけたところだったが、憂愁にとどまってはいられない、さあ、これで屋敷とも配下ともお別れだ。
「少し庭を歩いて来る」誰にでもなく、だがはっきりと聞こえる発音でそう言って僕はひとり外に出た。そしてチューザーは苔子との対面をまわりが注視するなか、ひと足早くバスの在りかに向かって駆け出していたわけさ。垣根を越え門を抜けた。甲賀玄妖斎なんて結局居なかったな、などと他愛ない考えに吹かれるようにして浮遊した足取りも気楽な風体で、ついに隠れ里を背にした。
追手の心配については都合よく解釈を施してあったので、というよりほとんど楽観的な考えに絡まっていたのだが、つまりきつねの面々は反勢力の手先だからどこまでも監視を怠らないだろうし、どうあがいてみても僕の行動は逐一上層部に報告されてしまうわけさ。あるいは百歩譲って野放しを容認する場合、職務放棄という名目において処理しよう、そう願ってもない好機に恵まれるんじゃないか。無論ミューラー大佐個人の逃亡だけで済まされない事情は計り知れなく、世界中に暗躍した組織の君臨者をおいそれと放任するとは思えず、情報の露呈など様々な危惧によって再度幽閉か、暗殺が待ち受けていると腹をくくったほうがいい。だがどちらにせよ、自由への渇望は障壁を乗り越えようとするんだ。大佐の意識が甦生すれば、僕は原理的に死んでしまう。それなら、最悪の情況を嘆くのではなく、いわば無心で虚空を羽ばたくようにして時間をたぐり寄せてみよう。ときの流れに身をまかせるふうでもあるけど、視線の泳ぎ方はかなり異なるよ。
あのバスだって結社が用意した秘密兵器かも知れない。そうなれば増々逃げ場は存在しない。だけども僕はチューザーと一緒にバスに乗り込みS市へと進んでいくしかないんだ。そこに行ったからといって何かが待っているわけでもないだろう。これは虚空への旅立ちだ。目的なんかじゃない、一切があそこから始まったし、すごろくなら振り出しに戻る遊戯なのさ。ミューラーの意識もあの農道で僕と入れ替われば、空虚なこころに円環が浮かびあがり、完結という名の装いが施される。今度は僕が美しくだましてやる、何をかって、それは振り出しに帰ればきっと分かるよ。
山並みを睥睨するつもりはなかったけど、西日を受け始めた目はまぶしいものに挑発されたみたいな気がして、孤独の境地をミューラーに分けあたえてやりたかったんだ。誰も注目などしていないのに、ひとり稽古する役者の心意気かも知れないな。だってその方が山も野も陽光でかがやくだろう。瞬間瞬間を愛せずに一体どこを求めるんだ。
これから麓に向かうには山々を目に、野原を踏みしめて行くわけだからさ。