ねずみのチューザー54


くるりともげ太らに背を向け屋敷に戻ろうとした。困惑の様子がうしろからうかがえる。さっと振り向き僕は言った。
「これはミューラー大佐としての命令だ。速やかに苔子を床下より救出し、十分な治療に専念せよ。残っている医師はいるんだろう、いなければ直ちに呼び寄せるんだ」
自分でも無理があるようにも思えたけど、声は広く野に響きわたり、そこには確固とした自覚があった。無論ミューラーの意志ではない、僕の自覚さ。
「大佐殿、そのような心遣い、、、任務を全う出来なかった苔子に、、、」
もげ太の言葉尻は恐懼に震えているようだったが、柔らかな声質のせいか、願ってもない満悦をくぐもらせているようにも聴こえた。多分に僕の温情がこぼれ出たと言われそうだけど、そうじゃない、電撃的な直感から結び目が見えたんだ。
「さっきも尋ねただろう、苔子の処遇について。掟には縛れていないよ。それとさあ、もげ太さん、あなたは苔子のことが好きだったんだろう」
僕の発した言葉に多少の呪力はあったみたいだ。「畏れ入ります」のひと言だけで黙りこんでしまった。別にこれまでの経緯に対する意趣返しなんかではないよ。苔子を救えるのはもげ太しかいないという考えも直感に含まれていたんだ。
「いとこ同士だから好きになっていけないなんて誰が決めたのさ。ミューラーは独裁的にあなたから苔子を奪ったのかも知れない。いいんだ、真実など。僕に出来るせめてもの断定だ。救出後もげもげ太の任務を解く。これでいいんじゃないかい」
まったく何を得意になっているんだと君は思うだろうな。が、よく考えてほしい、ミューラーとしての立場は失脚の憂き目から逃れなれないし、実験が失敗に終わった以上この里の処分や、配備されている監視役なんかの今後はもう見えているんだ。本来の意味で僕は幽閉状態なんだよ。近いうちに幹部連中の意見がまとまれば、僕はおろかもげ太やチューザーの進退は明らかになる。いわば彼らは最後の親衛隊といえるんだ。だからこそすべてにおいて忠実だったんじゃないか。苔子も入れ自由の空気を味わってもらわなくては。きっとミューラーだってそう判断するに違いない。
意気揚々と座敷に上がったとき、チューザーが何か言いた気な顔をしていたが、すぐにそれは理解出来た。ミューラー大佐を演じろってことさ。そこで早速、僕は声を張り上げた。
「護衛ならびに監視役の者、プロジェクトの任はここに終結する。きつねの面々もよく聴け、地下の医師団にも告ぐ。闇姫役の女人を今すぐここに連れてくるのだ。親衛隊を誇れる者はこの中にいるか」
音もなくふすまが開かれ二名が現われた。それぞれヒツジとヤギの面を被っていた。恭しく敬礼をした二名に対し、僕はこう命令した。
「お前たち、もげもげ太を伴い苔子の救助に当たれ。くれぐれも粗暴な扱いをするのではない」
もげ太の瞳がうるんでいるのを横目で認めながら、僕は屹立とした姿勢で素早く駆けてゆく部下の背中を凝視していた。
あれはどのくらいまえなんだ。おくもさん、きみのうしろに着いて座敷を巡ったのは、、、あのときは機械人形なんか思い浮かべてしまったけど、今は僕が完璧な機械だよな。すまなかった、きみは自分の魂が抜けてしまうのを知っていたから、あんな空虚な説明に透けて現われ幽霊みたいだったんだろう。
悔やみきれない情念は逆巻くことにとどまらず、青みを増した月光となって屋内におけるあらゆる明かりを駆逐しようと試みた。
「護衛役、奥の間の殉職者を丁重に葬るのだ。監視役、本部との連絡は可能か、ならば待機しておれと伝えよ」
僕は賭けていたんだ。ミューラーの記憶が甦るまでの間、どれだけ逃走出来るかね。どう言われても最高責任者の末路が僕に及んでくるのを易々と受け入れるほど、お人好しではない。散々他者を巻き込んでおきながらよくそんな文句が言えるもんだと思われてもかまわないさ。本質的には僕の原罪ではないから。
それに制御装置の稼働だが、現時点では僕に主導権があるみたいじゃないか。気が動顛していることはしているけど、大佐を演じるくらいの冷静さもかろうじて残されている。ことによると案外目覚めは遅くなるかも知れない。
苔子が無事を見届け、もげ太に別れを言い、屋敷は解放される。そしてさっきから僕の肩に飛び移ったチューザーとねずみ語で企てを立てている。ねずみ語なんていつ学習したのかって。バスでも座敷でもいつも暇だったのを忘れたのかい。
チューザーの置かれている立場も実は危ういんだ。ミューラーの威光が失墜した情況だと、種族の途絶えた身には、結社の科学班がこぞって研究対象の為と気の毒なくらい奉仕させられるのは確実で、おそらく生きて自由を得ることは叶わない。特にドクトルKは人体実験よりも、効率の高いクローン技術を用いて格好の材料と密かに願っていたんだ。子孫繁栄とはいえ、チューザーはそんな複製術などにすがる気は毛頭ないらしく、僕と一緒に逃走し山間に隠してきたバスで落ち合おうということ決まった。ミューラー大佐としてではなく、あくまで僕という曖昧な人格とね。考えてみればチューザーは独裁者に制圧された、いや影響されてしまった悲劇の生き物といえる。
土壇場での逃走に恭順してくれたのは、彼にとってみても最後の賭けだったと思う。だって途中で僕の意識が消えたりしたら目もあてられない。それとも大佐と心中でもする覚悟をしていたのだろうか。