ねずみのチューザー53 風がそよぎだした。山稜に白雲がかかったがまだ低くない太陽の光線は、生き生きする緑のふちをかすめながら乳白色の雲を生みだしていた。ところどころが黄金を透かしたみたいに深い光彩を放っている。 「闇姫はあのまま解放されない掟に縛られるのだろうか。分娩が不首尾って言ってたけど、それも背信行為と定めたというのかな。もげ太さん、あなたに訊くよ」 「いいえ、じいやばあ、それにおくもと違いまして苔子、いや闇姫は戦闘員としての使命は申しつけられていません」 「苔子でいいよ。僕もそう呼ぶから」 「恐縮です。死んだ三名は本来護衛役として配備されたのですから、越権行為は絶対命令のもと断罪されても仕方ありません」 「監視役じゃなかったわけだ」 「はい、監視は屋敷内に張り巡らされた高感度映像や集音装置がほぼ担いまして、あとは大佐殿に察知されないようまわりを幾人かが固めておりました。三名は世話役も兼ねていたのですが」 「そうだったんだ。僕はてっきり彼らに見張られていたのかと。それにおくもは肉欲の相手まで努めてくれたんだ。いや、おくもについては最後にするよ。まさかハイテク機能を装備した屋敷とはねえ、で、苔子なんだけど」 「あの床下の奥にはトンネルが掘られていまして、苔児の分娩室が設けられていたのです。屋敷からはちょうど灌木の茂みの向こうになりますが、見通しが利かないあたりに自動開閉する明かり取りの窓なども設置されていたのです。医師団は無事分娩を見届けましたあと、直ちにねずみの発育に専念して器官を詳細に調べた結果、チューザー殿に顕著な声帯をどの子ねずみからも確認できなかったです。しかし成長とともにやがて成果が出ることに望みをかけました。それを知った苔子はやはり母体の本能とでも言いますのでしょうか、誰よりも深く失望し、そして自責の念を募らせていったのです。結局種族の誕生はあきらめるしかありませんでした。ところがわたくしも知らぬ重大な秘密が監視役から届けられたのでした。それは苔子は子ねずみと一緒に人間の子供を生んだというのです。かなり小さな赤子でしたが、紛れもない人の子」 「何だって!その子はどうなったんだ」 僕の鼓動は早鐘のように鳴り始めた。再びめまいに襲われる。が、底知れない陰謀が渦巻いているのを、あたかも隣部屋から覗き見しているように判断出来たんだ。そして苔子の狂態さえもが。 「死産でございましたので実験が失敗に終わった以上、大佐殿にはこの件は伏せておくのが最善、人の子など価値はないと一蹴されるに決まっている、そんな意見が大半を占めて、早々にこの里から何処かに運ばれてしまいました」 端正なもげ太の顔立ちが不協和音に歪んでいる。 「そのあと、苔子は発狂したんだね」 「そうです。けれども原因は使命の不首尾とも、死産の赤子からとも言えません。いきなり狂ったわけではなく、次第に正気を失っていったそうです。医師団や幹部はその処置に頭を悩ませ、ついにわたくしとチューザー殿に妙案を求めてきたのでした。問題は大佐殿の記憶回復に委ねれていました。あの頃の大佐殿といえば、苔子なきあと籠絡の身を嘆き、脱走さえ目論んでいる様子でしたから、わたくし共はおくもの責務をより認識させる為、地下室へ連れてきて苔子の有様を見せたのでした。とにかく大佐殿をこの屋敷から出さないよう心身一体となって尽くせとの命を、おくもは従順に務め上げました」 「それでおくもは床下の造りを知っていたわけだ。だけど、そんな部屋も抜け道なんかないって」 そこまで言いかけたとき、僕の胸に不快な熱が広がっていくのをどうすることも出来なかった。思えば赤影にまつわる金目教やら卍党、そして闇姫という存在自体が目的に向け刷り込まれていた。きっかけを作るよう軽快に投げかけられているも知らず、いや、むしろ僕を奮起させるにもってこいの追想として段取りされていたのであって、少年時の憧憬を募らせ性的興奮をたかめる為にか、その意気込みこそが無謀に近い交配を成就させ、僕と闇姫はいにしえからの契りを約束されている確信へ至ったんだ。本来の記憶がミューラーのものなのか、青年のものなかはここでは証明出来ないが、なんという時代がかった、けれども淡さをもって激しさとする演出には畏れ入るばかりだよ。あれほど嫌悪した記憶回路への侵入はもはや疑念として拭うわれるのではなく、一筋の道程になって僕を待ち受けている。 すると闇姫を演じた苔子もまた同様に意識操作されていたのだろうか。 「苔子は金目教としての自覚があったのか、そうなら、、、」 「いえ、役目を全うしたのです」と、もげ太はきっぱり否定しかける語気で続けて「闇姫に成りきっていました。故に失望も大きかったのではないでしょうか」そう話した。 「おくもはそんな苔子の心根を見抜いていた」 「違いありません。大佐殿の疑問もそこに結ばれていくのです。おくもは悲嘆にくれる姿に同情しただけでなく、奥の分娩室を見られてしまうのを怖れていたのでしょう。しかし」 「しかし」血の香りが鼻につく。 「ばあからすればおくもの心中を慮ることなく、断罪に値したわけなのです」 「どこまでも忠実だった、この僕に」 憐れみが花びらになっていればいいのだろうか。 「じいはおくもに斬りつけたあと僕にも攻撃しかけてきた」 もげ太は眉根に悲しみを寄せ「捕らえるつもりだったのです。どうして大佐殿を傷つけられましょう」 山々の連なりに向かって深いため息がもれ、陽光は雲間に隠された。ほとんど起伏のない野原だったが、翳りによって抑揚ある草いきれを覚える。 きみらがおくもの失血死をくい止めなかったのも、忠義からだったのか。悔恨に満ちてきたこころは方角を転じるよう命じている。風がまたそよぐ。ほら、ほんのひと時さ、陽射しがすぐに戻ったのを僥倖とばかり、 「では苔子はもういいんだね」と、挑むよう問うた。 |
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