ねずみのチューザー5 どんな夢を見たかって、それは毎度のことだからこまごま書くのは省略させてもらうとして、一気に夢は覚めたよ。いや大丈夫、頭に石は飛んでこなかったし無邪気な目をした子供も見当たらない。そこは銀山みかん園に違いけど、やっぱりこれといった印象が情景としてしみついてなかったから、山々にかこまれても格別感慨はなかった。それに誰もいない、ひとっこひとりいない。みかんは数知れずあの野球帽の色に負けることなくたわわに実っていたよ。太陽は温かなんだが、風がときおり冷たくてね、まあ申し分なのない気候だったから、人気がないほうがのびやかでよかった。それで夢が覚めたんじゃない。問題は寝た子をたたき起こすようだ。バスから降りるとチューザーは僕の足下からスルスルって這い上がってきて、胸のポケットにシュッと収まってしっまうと、「なかなか居心地のよい胸でございます」なんて言うもんだからちょっとびっくりしてさ。というのも今じゃ萎びてしまったけど、あの頃は無性に筋トレに凝っていてプロテイン飲みながら超回復理論なんてのも考慮して励んでいたら、大胸筋がえらく張りだしてきて、以前あったじゃない「だっちゅーの」っていうの。あれ出来るようになったわけ、自分でも妙な気分でさ、だって乳房まではいかないけど貧乳の女性よりは盛っていたから、風呂につかるときなどもんだり、さすったりしていた。それを急に思い返したんだ。同時にチューザーがサッとポケットに全身を沈めながらこう言った。 「どうですか、もうおわかりでしょう。それがしはここにひそんでおりますから、ゆるりとご対面されるがよいでしょう」とね。 一気に脳内をチューザーに代わるねずみが駆けまわりはじめた。ああ、柔らかな乳房、なめらかな脇腹、すべすべとした二の腕、そしてふくよかな尻。一体誰の女体だったのか、まだはっきり顔が現れてこない、、、そのときだった、密生しているみかんの木がガサガサと鳴りだしたと思うと、ふたりの女の子供がヒョイと顔を出し目をまるくしてじっと様子をうかがっている。まだそれでも合点がいかない、しかしもう問題の半分は解けたような気がして、これはほぼ条件反射だろうな「おかあさんはいないの」なんて自分でもくすぐったいくらい甘い声色で話しかけてみたんだよ。すると、ふたりの子供を盾する格好でみかんの影からいきなり見知らぬ女性が出てきた。 「そういうのをねこなで声って呼ぶのよ」ってあきらかに怒気を含みながらこっちに近づいてくる。なんだ、なんだ、これはねずみの奴にいっぱい食わされたか、異次元だろうが、不思議の国だろうが、あの世だろうが、ようやく危機的な鋭角的な感情がわきあがってきて、胸を思い切り叩いてねずみを成敗してやろうといきり立ってみたけど、それよりさきにその見知らぬ女性が「これにハンコ押してちょうだい」なんて意味不明のことを口走るものだから呆気にとられてしまい、さっき解けかかった問題に全神経を集中させたんだ。 差し出された紙面を見れば離婚届じゃないか。僕はあんたなんか会ったこともなければ、結婚した覚えもない、って喉までもう出かかっているが的確に反抗出来ない。そうこうするうちにじっとひそんでいたはずのねずみがもぞもぞ動いた加減で、どうしたわけだろう、まるで陽光をたっぷり吸い取った布団のうえに横たわっているような、ふんわりしたぬくもりが訪れてしまい、もと「だっちゅーの」だった僕の胸は変幻し、南国の大振りな型をした果実へと色香を漂わし出してあらぬ方向へと、磁石で引きつけられるみたいな移行をもってこの身が消え入るのではと危ぶまれた。が、心もとないにもかかわらず、異性をまえにして衣服をすべて脱ぎすてるような恥じらいより先行した興奮がうずまき、肉体の交わりがいとも簡単に済まされたときと同様の安堵に包まれてしまった。 ほどよい弾力は決して人工的な按配で生み出せるものじゃないね。精が果てたあとの女体枕をいつまでも味わい尽くしたい欲望だけが、あたかも夜明けのカーテンが暖色に染めあげられるよう、寸暇である光となってこころ焦がす。 妙な妄想が過ぎてゆくと僕は相手に釈明を求めることなく、その紙面を受け取ったんだ。もちろん誰だったか知らずじまいさ。女性はふたりの子供を連れて身をひるがえし何処かに行ってしまったよ。 「まったく、どういう事情がわからないがなにもこんなとこで離婚状を突き出すなんて」そう勝ってに口が開いたら、待ってましたとばかりにねずみの奴、「そうでございますな、時と場合が肝心というものです」なんていつの間にかポケットから抜け出し、僕の肩にちゃっかり乗りながらもっともらしく相づちを打っている。「おい、おまえが仕組んだんだろう」肩から払い落とす素振りでそうなじると「そうかも知れません。しかしこれは儀礼なのです。記憶が戻らなかったのは通行手形を受けとったという意味でしょう。あの女人が何者であれ、あなたさまは自由になられた。さあ、更なる旅を続けましょう」と来た。 これじゃ、あの頭に石をぶつけられるのと似たようなものじゃないか、そう内心では悔やんでみたけど、「八面体における一面の相似」ってつぶやいて観念したよ。ねずみも道づれになっていることだし、記憶はなくても少しは冷静になろうって。 |
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