ねずみのチューザー44 灯火は恐怖と混然なったもろもろの心情をかなり鎮めてくれた。床下だけあってさほど頭上は高くないのを知ったし、地底深く傾いているかに見えた空間も広大な面積を持っているようではなく、敷地内から野方図にはみ出してはいない気がしたんだ。低い階段を降りたばかりのときは回転した畳がもとの状態に戻ってしまい、光線は断たれマッチの灯りだけでは心細かったけど、この頼もしい百目が放つ明るみは余計な神経を除き去って恐怖心を純化させ、それに見合うだけの研ぎ澄まされた緊張へと導いてくれた。 視界が開けたことは何よりの安堵だったが、自分の身体に鋭敏になったのはこれからの身構えを諭してくれていると思われたよ。春先の気候だから別に温度に意識は奪われはせず、ただ薄い靴下を隔てて感じられる地面の具合が、解放とは似つかないの軽卒な自由を拡散しているみたいで、小石に交じって何か鋭利なものが紛れこんでいそうな危うさをごまかせなかった。おくもと同じに足袋を履いているだけで、どれだけ居心地が向上しただろう。とはいえ、今更ぼやいてみても仕方なかったので、作務衣の懐や袖を探ってみたんだ。この里に来て衣服以外は身につけることもなければ、何も持ち歩く必要もなかったから当然気の利いたものなんか出てくるはずもない、精々了解したのは同じ型のろうそくをあと二本懐中に仕舞っておいたぐらいか。もう数本持って来てもよかったのだが、多分それなりの勘が働いたんだろうな、そんなに長時間も穴ぐらを徘徊したくはないと願っていたのが本音さ。つまり地下室に忍びこむ気忙しさは、一瞬鍾乳洞を想わせる驚異に勝ったのか、案外と沈着な展望を求めていたわけだ。 何とも手前みその理屈に聞こえるかも知れないけど、おくもは僕の心中を察していたようで、 「ろうそくは他にいくつかの場所に備えられています。わたしも不用意でありました。マッチ一箱しか携えていないとは、、、」 と、いささか落胆した声色をこぼしながら昭和の面影を残した箱形のそれを差し出した。 「そうだね、ライターとかあればよかったんだろうが」 喫煙の習慣は忘れられていたので手もとに置かれてなかったし、あの古風な屋敷内には不似合いな代物だよ。衝動的とさえいえるこの情況をあらかじめ知り得ていようが、ライターはおろか懐中電灯だって果たして常備されているやら、たとえそうであったとしても一体誰に尋ねられるというのか。そんな発案こそ勘づかれることないよう留意してきたんだ。 そのとき僕の脳裡をはすかいに横切っていく、だがとても鮮明な瞬きが訪れた。おくもは自分の手落ちを嘆いてみせたが、この床下にかつて足を踏み入れた事実は間違いない、そうだよ、だからろうそくの在りかなんかも心得ていて、マッチ一箱で事足りる推量をしっかり抱いている。どこまで細やかな心配りをしてくれるんだろう、僕の動揺を包み込んでくれるように感情の襞に優しい手が差しのべられる。 感激で胸が熱くなりかけたけど、非の打ちどころがないおくもの思慮に冷徹な側面を見つけないはずもなかった。しかし、そんな邪推を退けるくらい僕の胸は一筋の光明に照らされており、複雑に絡みあった蔦が紅葉に染まる色彩を分別して眺めることもなく、反対に色とりどりの豊かさが鮮やかな光線のなかへと帰ってゆくのを覚えた。 恐怖心は選り抜かれた風景にまつらう様相で対峙している。足のさきから、あるいは頭のてっぺんから冷や水を浴びせられるふうにして感じとるのが本来なのだろうが、消えゆく最後の疑心に笑みを浮かべながら手を振ってあげたい念いは、偽りのなかへすべてを投じてしまいたい一心に同調して、闇は灯りを決して侵蝕出来ないだろうという求めに収斂していた。恐怖が恐怖として存在しながら、僕のからだをすり抜けたりしているのは、白々しいと言われようとも、新たな邪念が生み出されたからに違いなく、そう僕はおくもに恋をしているのを知ったんだ。 知ると同時に再び暗闇に対する不安が押し寄せろうそくの火を揺らした。もう一本を取り揺曳する火影をそっと移す。水たまりに浮かんだ波紋を制御するにはもうひとつの波紋を生じさせるのが適切であるように、僕の産声は自然に泣き止むのを恥じ、ふたつの火柱が夜空へと燃え上がる空想に準じた。 おくもの表情には手渡されたろうそくの灯りを受け、つつましく見える緩慢な笑みが美しく現われ、陰影に捧げられた。なぜなら、肩が触れあうほどに寄り添った面持ちで、たおやかに小首を傾けあえて目線がそらされた姿態には、言い様のない夜の気配が漂っていたから。 またそっと唇を重ねてみたい欲望に駆られてしまったけど、どちらかの灯火も消してはいけない想いが強く波打ち、熱い吐息さえもれることなく新鮮な空気は保たれ、甘い苦しみを感受しつつ胸のなかの水面に引き戻された。その代償として僕はおくもから、こう言われたんだよ。 「うれしいです。ろうそくが二本、わたしの分も気遣ってくれたのでございますね」 そんなの気遣いなんかじゃない、そう返しかけ別のもの言いをした。 「とにかく僕から離れないようにしないと。ここは尋常な場所ではない。わかったね」 おくもは今度は目をそらさず黙ってうなずく。我ながら恥じ入ったよ。ここまでおくもの尻に引っついて来たというのに、恋にとらわれたのがまるで罪であるよう、それから相手に罰を言いわたすのが務めであるよう見事に高慢な態度が躍り出たもんだ。が、出てしまったのも幸いか、ようやく僕の意志は怖いもの見たさに匹敵する馬力、あの遊び心を復活させていたのさ。 |
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