ねずみのチューザー43 奇妙な逆転した思考だと言われそうだが、少々補足させてもらうと、おくもは機械人形なんかじゃないし、これは無論こころの在り方なんだけど、それならどうして生身の人間に油の匂いなんか嗅ぎとるのかって問われれば、端的に言うとまだまだ抑制が働いている加減を知るからであり、おくもがどこまでも陰謀に加担しているわけではなく、本人が応えたように自らの自由を、つまり桎梏から逃れる手段を選択したってことに尽きるんだ。意味合いが見えにくいのならこういうふうに説明する。 おくもは任務から逸脱したけど、身に絡みついた枠組みみたいな足かせに縛られている。その慣習はどれ程そつなく歩いてみても、反対にどこかぎこちなく影が泳いでゆく、そう思えたとき僕はようやく真の味方を得たと感激したのさ。何度も念を押すがおくもの実際の歩き方に問題はなく、やはりこれは濃厚にからだを交えられたおかげで透けて見えた確信であり、ゆるぎのない空間を踏みしめている感覚だった。 さて、信念をみなぎらせるというより胸中があまりに澄みきってきたので、激しい勢いに押されるでもなく、あるいはおくもの背に強烈な磁力を感じるわけでもなく、ときを経ず油の匂いも希薄してしまってもう五感に飛び込んでくる刺激はなにもなかった。ただ、奥まった座敷に漂う静謐な感じが異様といえば異様であり、肌を撫でていく無風に限りなく近い空気が、おくもの後からひんやりと流れてくるようで粛々とした気分をさずけてくれた。花びらが舞落ちるとき、ほんの僅かだけ芳香がかすめるように。 ぼんやりした明かりが一定のままなのは摺り足に畳を踏む加減と調和している。部屋の隅に置かれた行灯の為せるわざなのか、放心状態で歩を運ぶ僕にはそれをつぶさにすることもままならないうち、どうやら陽がほのかに差しているのが、まぶたの裏へ柔らかく報せている。おくもが振り返るのと、ふすまに隠ったような低い声が出たのは同時だった。 「ここでございます」 別段なにも見当たらないし、間取りに変化があるわけでもない。しかし、おくもの爪先は白足袋を破り抜ける野性の嗅覚でその場を示している。 「この部屋が一体、、、」 放心に輪をかけられた僕は首をまわしてみたり、天井を見上げたりしてみたが異質な様子はどこにも見当たらず、かえって昼と夕の狭間に訪れる無防備な面持ちをした気だるい陽射しに、畏敬の念を抱いたりした。先の間に覗ける障子を通し薄い煙幕となり畳を這っているひかりはとても神妙だ。ふすまの影を淡く横たわらせ隅々の本来の薄暗さに忍びよった趣きに、胸の空洞が充たせれていくのを知ったよ。 おくもは一枚の畳のへりに注視するよう、目線を斜めにすべらせ僕の反応を待ちながら、驚きを緩和させる務めで不敵な笑顔をあらわした。承知していたさ、前から注意深く各部屋の畳を確かめていたのに一向に発見はなく、不審な物音も聞き取ることが出来なかったから、こうして定番の畳返しが披露されるのはとても口惜しい。おくもはそんな僕の遺憾を吹き流すため、あえて感情の発露を仮面にして見せたんだ。そしてこちらの構えを確認したらしい。 「これから猶予はありません。一気に踏み込みましょう」 そう言い放ち、ドンと右足をへりに叩きつけると、軽やかに木の板が跳ねる具合で畳の前方が上がり、後方が床下に下がったまま、辺りのひかりを吸い込んでしまいそうな、暗渠を想わせる侵入口を目の当たりにさせた。半畳ぶん床が開いただけで、恐らく気のせいなんかじゃなく、明らかに土臭い冷気が足もとに近づいてくる。が、それより素早くおくもは先に立ち、いつの間に手にしていたのか、マッチ棒をすり瞬発の火をたよりに階段を見定め、白足袋が闇へと消え入ることも怖れずに身を落としてゆく。僕も慎重に後を追いながら次々と小さな火が灯される真下を見極めるべく、目を点にする。 梯子に近い危う気な階段は長さもなく、案外楽に床下に達したんだ。でもそこからが茫洋とした夜の海のように行く手を拒んでいる。反面なだらかな傾斜によって土中深くにまで広がっている現況は、ある種の開放感を与えつつ次第に閉塞へ持ちこむ邪気で被い尽くされているかと感じられ、胸に秘めたはずの空洞はいとも簡単に呑まれてしまったのさ。救いとなったのはおくもの挙動が闇夜に慣れた素振りであったこと、その目はたぶん僕と違って危険を避ける方法を得ており、かつて夜道を手繰りに足場を築いた知恵がいま懸命に試されていることだった。 奥行きは計り知れず、左右に伸びる空間の在りかもつかみとれない。あたかも鍾乳洞に迷いこんだ困惑にささやいてくれるのは、地底から湧き出る清冽な水音であり、反響に限りがない予測を信じるよう内心にひそんでいる声だけだ。そんな念いがよぎっていったとき、まさに小声のおくもは地上に届かさないもの言いでこう促した。 「そこの左側の岩肌にくぼみがあります。ろうそくが仕舞われているはずです。旦那様のほうが手を伸ばしやすいので、わたしがマッチをすって照らしますから、確認してみて下さい」 言うが早いか、僕の返事を聞くまでもなくその場所らしきところがパッと明るみ、確かに削りとられた形跡のあるくぼみは浮かんで、数本のろうそくが血の気を失った人肌のごとく立てかけられているのを見つけ、難なく取れるのを知り再び暗闇へと襲われるまえにサッと手にした。 つかんだとき咄嗟に感じたけど、炎が灯されてみれば人肌に映ったのも無理はない、幼児の前腕くらいはありそうな百目ろうそくだったのさ。先端に向かって太くなっている重量感は期待通り、火焔をめらめらと立ちのぼらせると、闇を漂白する勢いで僕とおくものまわりを照らし、燃える朝焼けのような朱に落ち着ついて岩肌を悩ませたんだ。無数の陰影が居場所を隠そうとしていたから。 |
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