ねずみのチューザー38 婚礼のため解放されたあの広間からむこうは知らない。まずは僕が隠れる役になり、幾重にも閉ざされたふすまを数えることなく開け放っては、底なしの奥行きへと遊泳する。もう何年もまえから住み続けてきたような思いがするいつもの座敷が、装い違う必要なしとばかりの無機質な相貌で出迎えてくれる。 畳の匂いや天井の木目にわずかに新鮮なものを感じとっているような気もしないわけではないが、多分それは代わり映えしない部屋をかき分けて進んでいる感覚のなせるわざで、歩調こそ軽いけど、決して駆けるほどの勢いでないにもかかわらず、こころ躍るがゆえにだろう。 遊戯だとよくよく自分に言い聞かせてみれば、確かにこの迷宮はおくもの息づかいを背後に知るし、騙し部屋をぐるぐる巡っているだけとしても、それはそれで愉快なところがある。世の中には不愉快な遊戯もいっぱいあるんだろうけど、今の僕には文句ない迷走だったよ。思惑はまえに話した通りだからくり返さなくてもいいね。ひと言、この脱出劇から遊びごころを外してはいけない、とだけ念押ししておこう。 さて、困ったことにどの部屋にも押し入れがない。それらしき敷居のつくりに飛びついてみると、またもや同じ光景が現われてくるだけでいっこうに進展がなく、このままだと他愛なくおくもに追いつかれてしまうな。一応探索も兼ねているのだから、何らか身をひそめる場所があって欲しいものなのに、これではただの追いかけっこになってしまう。いつもまでも堂々巡りに応じてはいられない、とりあえず屋敷内を無闇に探ってみた結果はまさにつかみどころがなかったし、徒労に終わりそうだ。いくら遊戯とはいえ、なるだけ早く見取り図なり、秘密の通路なりの仕掛けを見つけ出したい。さあ今度は慎重に目を凝らしながら、畳のへりや欄間の文様などにも相違がないか調べてみよう。僕は足取りをゆるめ、いかにも根負けした趣きで一室にたたずんだ。背中で表情を見せるのは中々難しい。元々静かな空間だったから、僕が音を忍ばせれば自ずとおくもの気配は耳をかすめた。おくもは女忍なら悟られることなく近づくのも可能なはずだけど、鬼の役目は言わずもがなだったから、悲嘆にくれ、あるいは戸惑いにせき止められた様相をそつなく背中でしめせたら、意向は伝わるに違いない。機微をうがつ手間は省略される代わり、瞬時にして僕の葛藤は解読されることだろう。大丈夫さ、誤解、つまり逃走心だけを見抜かれたとしても、おくもはそこに率先している挙動の影を見る。 攻落に向けての第一歩がたたずみの裡にあることを知り、また頓狂な好意がこうも寡黙になかに息づいている直感を得るんだ。おくもの動揺を背後に感じよう。 案の定、畳をする足音も初々しくおくもは僕に迫ってきた。開け放たれたふすまが何枚越しか、大体わかる距離だ。極めて冷血なまなざしを阻まれた無限の造りに投げかけ、その鋭い冷たさも反射して後方のおくもに届けられるよう願った。もはや耳を澄ます神経はいらない。 「旦那様、降参でございますか。行けども行けども、同じ部屋の連続、、、」僕は陽気な言葉をさえぎるよう声をあげた。 「次はおくもさん、きみが隠れる番だ」 句点を打った効果のような間が透明に堕ちた。そして僕の返事に対する口ぶりが発せられた刹那、おもむろに身を翻しながら目線を合わせることが出来た。 「承知しました。わたしの番でございますね」 おくもの声は距離を置いて響く花火のごとく、少しだけ低音気味だった。僕は微笑を取り寄せ、優しくこう言った。 「そうだよ、早く逃げないと」 今度はおくもが背を向けると、これまでたどってきた座敷へ小走りに去っていった。直列した四枚目のふすまから左に折れるのが見てとれた頃、僕はほとんど平時の歩行速度でそのあとを追跡したのだったが、逃げ足が途絶えているのを訝しながら左に向かったとき、思いがけない姿に出会ったんだ。 そこには投げやりにも意図的にも見えてしまう、おくもの哀願するような眼光が浮かんでいる。まさかこんなに早く番を放棄するとは考えてもいなかったので、心臓がドキリとしたけど僕は無言のまま、さっきの冷血なまなざしを注ぎ、情感を混交させようと努めた。 ここが奥まった座敷であることをあらためて認識したのは、陽光がほとんど差していない仄暗さによって、僕らふたりの間合いに遮蔽がほとんど存在していない、情感よりもっと高揚するものを見せつけられたからだった。眼光に哀しみを感じたのは僕の勝手かも知れない。しかし、この場に待ち受けているふうに立っている事実は想像のよどみではなく、ひとつの意思が歴然と働いている証ではないか。僕の驚きを期待していると思った矢先、おくもは有無を言わせない行為で更に緊縛を求めた。そう、求めたんだ。 そして空気を抜かれた風船みたいにヘナヘナとしゃがみこんでしまった。明かりのよりどころだった目線は面持ちをうかがわせない素振りで下方に落とされ、ちから尽きたと言わんばかりの風姿に僕は複雑な気持ちを抱いた。失望と希望が同居しつつも、悪夢と欲望が離反していく奇妙な、だが、限りない愛情が芽生える予感が渦を巻いている。おくもが鋭敏に僕を理解してくれたのなら、なぜ遊戯をこんな形で終わらせてしまうのか、早急な交情はこの隠れ里では真意が曖昧なのに、、、 どうやら僕は籠絡される運命から逃れられそうにもない。おくもはすべてを熟考したうえで忍法を仕掛けているんだ。遅かれ早かれの問題だったが、なまじ背中で演技などした挙げ句の至り、僕は黙っておくもと交えるしかない。かくれんぼは一時中断と思えばそれでいいじゃないか。 間合いなど本当になかった。すぐ手を伸ばしてうなだれたようにも見える首を上げさせた。ゆるやかな曲線を描いている額の下に悩まし気なまつげが伏せられ、瞳の中をのぞくまでもなかった。 |
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