ねずみのチューザー35


ある晩のこと、膳を下げにきたおくもに熱燗を再度所望し、酔眼の振りをもって彼女の視線と交わらせつつ笑みを作ってみたのだが、偽悪の表情はわれながらさぞ卑屈な顔つきだろうと、考えただけで興ざめしかけた。けれども、その不自然さがあべこべにおくもの軽侮をたぐり寄せ、思わぬ成果を生んだ。
「旦那様、今宵はめずらしいですね。随分とご機嫌がよろしいようで」
僕の醜悪な笑顔もまんざらではなかったのか、酔眼をなだめる優しい口調でそう言った。
「おくもさんよ、僕だって酔いたいときもあるさ。ねえ、すまないがお酌なんかしてくれるとありがたいんだけど」
図にのって頼んでみたら、おくもは黙って静かに徳利を傾けてくれた。手にした杯が微かに震えたのも何やら意味が添えられているふうで好都合だったかも知れない。一滴もこぼさないよう口を近づけ一気に杯をあおると、卑屈さは転じ未知数は逆算され、修正不要の確信を抱いた。「これでいい、これが前進さ」そう胸のなかでつぶやいた。
徳利が空になるまでおくもは酌をしてくれた。そのあいだ僕は彼女の顔を目に焼きつける。始めて会ったときの印象を裏切らない意思の強そうな目もとからは、犯しがたい神聖なひかりがいつも放たれていて、相手を威圧しかけない鋭さにためらってしまうが、ややしもぶくれの輪郭に調和する肉厚の唇と、きれいに揃った歯並びの白さを忘れ勝ちになり、ついつい顔全体で形成される穏やかな品性がなおおざりにされてしまう。その見た目は実際におくもに面しているときよりも、まぶたを伏せてみる遮断のなかに瑞々しくよみがえってくる。あごにかけての肉づきが丸みを帯びているせいか、正面と横顔に際立った違いを見いだすのが出来ないことに失望しかけた途端、鼻唇溝の深みととも口角がさわやかに上がり、歯並びが強調されるようにして笑みが浮き出し、あらゆる角度からの観賞にも親しみが付随していることに感嘆するだろう。おくもの笑顔がまれであるだけ、いつまでも脳裏に映し出されている余韻は隔てを無効にし、見知らぬものには既視感さえあたえるのではないだろうか。
僕が奸計と推量したこの冷たさ、あるいは毅然とした気風がかもす近寄りがたさ、これらは天性の器量であって殊更に誇張されたものではなかった。
濃紺の十字絣と茄子色の帯も本来の若さをいったん濾過してから、のちに抑えを解いたような清冽さを香らしている。からだつきは着物の濃い色調もあって一様にはかり知ることが出来ない。
「空になりましけど、もう一本おつけしましょうか」
鼻にかかったその声が耳をなでていくように感じられ、甘えながら抱き寄せてみたい衝動に駆られたが、その晩はそれ以上を望まなかった。鼓膜に微風が届けられたのかと夢想する。断念なんかじゃない、第二問はあわてては仕損じるだけで答えを取り逃がしてしまうんだ。だから「おやすみなさいませ」と、静かに障子を閉めたときの乾いた音に、夜の残り香を感じとり満悦した。手のうちはもう気づいただろう。そうだよ、僕はおくものこころに接触したかった。えらく純な胸中だって、さあそれはどうかな。屋敷をあとにする苔子には間違いなく感傷的になったと思うが、いまの僕は苔子にも闇姫にも、そしておくもにも束縛などされないし、情愛を分かち合う妄想も持ち合わせていない。女体を賞味しないのかって、どうやら義務みたいだから一応はだかはむさぼるさ。だが、それは第三問に進む情況を切り開く必要においてだよ。
見上げればもう冬空だ。冷たい雨はやがて雪になるだろう。少しも不自然じゃない、異形の里にも雪は積もる。日々は嘘みたいな早さで流れていった。約束された湯浴みの場面に筆を運ぼう。
あの酔眼から間もない日暮れ、僕は湯船につかったまま大声を張り上げておくもを呼んだ。
「どうなさいました。気分がよろしくないのですか」
心配そうに風呂場の戸から顔をのぞかせながら尋ねてきたので、いかにも平気な表情を保ちこう口にした。
「悪いけど背中を流してくれないか」抑揚はないが一言、やや高圧的な語気を込め目線はそらしたままだった。沈黙という効果がどこまで力量を発揮するのか、そんな問いを浮かべたところをみると僕は少々自信がなかったようだね。が、おくもは沈黙の場そのものに溶け込んでゆく、伏せ目がまるで無言の承諾であるように自分の足もとに注意をはらうと、躊躇することなく着物の裾をまくり、どこから手にしたのかたすきがけも鮮やかに湯船へ歩を進めてきた。
「旦那様、湯から上がってくれませんとお背中を流せません」そう、僕の語気などまったく意に介さない模様で微笑さえ投げかけてくれる。
これではかつての場面がくり返されたと困惑してしまい、局部を隠しながら湯船をまたぐのも等しく、せめてもの救いは手ぬぐいがすぐ近くに置かれてあった幸運だった。おくもの手つきは苔子とはあきらかに相違があった。ごしごしと垢をこするような加減とは別の、肌をゆっくりとなでつけてくれるふうな柔らかでのんびりとした調子、あまりに軽い手触りだったから、その分浴室の空気は湯気に代わって吐息が充満しているんじゃないかという妙な思いで密度は高まる。
背中に泡立てられた石鹸の匂いが希薄になっているようなはかなさは、紛れもないこれより反転する上体を求めている証だろう。そんな願望が湯冷めと拮抗しかけたのだが、おくもは背中をすすぎ終えると、「それではわたしはこれにて」そくそくと木戸を開け濡れた手足を拭っている様子がうかがえ、足音を響かせるくらいの気兼ねなさを誇示するふうに廊下の奥に消えてゆくのがわかり、僕はやはり肩すかしを食ったのだと遺憾を記しておくよ。