ねずみのチューザー34


じいやばあのすがたは目にすることはあっても、おくもが来て以来めっきり僕に近づく動静もなく、ただ単こうしてにひとつ屋根の下で暮らしているのは、すりガラスの向こうに見ているような感じだった。
おくもは最初の姿勢を変わらず保ち続けているので、僕は増々萎縮してしまい、距離感は縮まるどころか限りない平行線で律儀に計られていたよ。しかし慣れっていうのはある意味底知れないものだね。配膳のときなどおくまのからだはかなり僕に接近したりするけど、いつの間にか、独り膠着状態に淀んでいた気分がごく当たり前に思えてきたんだ。それまでは手が触れそうになったら、妙に意識したりしていたのでよくよくおくもを忖度してみる余裕などあり得ず、常にどぎまぎした自分を情けなく思ったりしていた。
ところがそんな初心な心情も季節の変わり目には移ろっていくように、段々と図太い神経が育まれていくのか、隔たりを十分知りつつもそれまでの対峙からは一歩踏み出し、素知らぬ顔色でおくもの姿態をうかがうようになり、同時に心算を働かせていたのは相手のほうじゃないかと感じてきたんだ。
さっき慣れだと言ったけど実はそれだけじゃない、あらかじめ用意されていた意想がようやく緊縛を振りほどいたに違いなく、それは心棒のようになって僕の胸にわだかまっていた濁りを浄化し始めたわけさ。
聡明な君にならすぐわかるだろう。そうだよ、おくもの微塵たりとも揺るがない物腰は本来の姿勢ではなく、周到にめぐらされたもの、つまり見事な演技だってことなんだよ。これは大胆な飛躍でも過剰な妄念でもない、もげ太に連れられ挨拶にきた折、含蓄のある微笑を僕は見抜いていたし、いや、見せられていた、それはつまるところ貞節を尽くす身構えが、うらはらに色香を霧状に発散させていたという非常に官能的な有り様に落ち着くわけだ。とりもなおさず僕は苔子からももげ太からも、禁令に対する免罪を認可されているじゃないか。が、なまじ正当な品行だと含まれたお陰で、一歩も二歩もへりくだるような意識が台頭してしまい、欲望の対象として眺めるまなざしを忌避してしまう方向に追いやろうとした。
実像に触れた途端、僕はおくもをしげしげとそしてなめまわすよう視野を固定し、隙をつく算段に終始した。まったく暇を弄ぶ身分にあったから、日がな一日、庭先の枯れ木なぞに無常を覚えるよりか、ひりつきながらも薄ら恥ずかしい気持ちに尻がすぼまる思いで、慎重かつ大胆な構想を練り始めたんだ。
君にしてみれば、雑然とした細事を読まされる煩わしさに閉口するだろうけど、ここからが急転劇の幕開けなので我慢して字面を追ってほしい。
湯浴みが意味するところはすでに自明だった。気軽ささえ包含されている容認だし、あの湯煙に包まれた欲情こそが現在の僕へと繋がって、未知数を残したまま、まるで蟄居を命ぜられた当主の態で謎かけに遊ぶ行為は抑止され、その代替としておくもが送りこまれてきた。ところが僕は謎かけの第一問だけはなんとか解けたので、続く問題にも挑戦してみたくなったんだ。これもひょっとしたら、すでに仕掛けが施されており自負心を操作する罠なのかも知れないが。
逡巡は許されない、それと安易におくもを抱くことも控えるべきだ。いやいや、抱くのはいいが、闇姫に溺れるような放埒は絶対に避けなければいけない。
それから何日経過しただろう。本山とやらに赴いた苔子からは一切連絡はなし、もげ太は何やら気忙しい様子で屋敷を留守にする日が多く、もっとも彼とは打ち解けようにも鉄壁の好感度ですべてをうやむやにしてしまうので、はなから監視役くらいにしか意義を認めていなかったから、不在であるのは却って都合がよかった。じい、ばあも同様、もともとさほど接点はなく信頼など求めていない、残るはねずみだけども、あの婚礼の夜から再びすがたを現さず、天井裏に潜んでいるのかどうかも定かではなかった。
で、謎かけの第一問、種牛としての義務をまっとうし苔子が懐妊したにもかかわらず、どうしてまだお役御免とならないかという疑問に対する解答を述べよう。好きよ惚れたの恋情もこうして引き離されてみれば何とも複雑でもの悲しさに沈滞しかけてしまいそうだけど、ふたつの標識がありありと提示されるんだ。ひとつめは種牛としては無論のこと、僕には何らか利用価値が備わっている為、更なる子種を注ぐとともに延命が約束されるという凡庸にしてこれまで通りの不条理らしき道程。ふたつめは苔子の出産に不具合が生じた場合、新たな母体としておくもが使命を受け持ついわば補欠策で、あからさまな夜伽の認可がそれを如実に物語っている。ではおくもが能動的に誘惑を表にしない訳、憶測だが苔子の安産が確定されるのを判断してから実行される慎重説で、これにもいわくはあると考えられる。
肝心なのは僕の精だけではなく、母体としての資質が多大な影響を占めるために子宮があれば誰でもよいわけではない、やはり選ばれし条件があると見るのが賢明だ。苔子は闇姫を装うほどに妖艶な容色に恵まれ、尚かつ上臈を彷彿とさせる典雅な挙措を失することなき絶品、おくもはといえば、観察の結果から苔子みたいなふくよかな容姿ではないが、武家の子女などに見受けられる凛とした息づかいが感ぜられ初々しい気品も漂わせている。
会話こそ抑制されていたけど、僕はあれからおくもを攻落することだけに専念し、すがたかたちの検分に尽力し、そして第二問へと挑むため、まだ開かれていない肉体の奥に神経を集中した。