ねずみのチューザー33 苔子が本山とやらに里帰りするのを、じい、ばあ、もげ太らと門口で見送りながら僕は得もいわれぬ感情に襲われた。深刻でありながら作り事を了解してしまう、水と油が入り混じらないようで微妙に溶け合っているみたいな思いがけなさ。惜別の情には違いないのだろうが、悲哀が沈殿していると同時に上澄みとなって揺らぎ透明すぎて、よく判別できない心境。それは苔子を抱きしめたあと、僕をさとす顔つきになって含めるよう口にした、「わたしの留守中、色々と大変でしょうから身のまわりを世話する者を寄越します。もげ殿にも断っておきましたので気兼ねなさらずに」という意味あり気な発言に戸惑っていたのがひとつ、それから子供の頃には日中を雨戸によってさえぎったり、異様な雰囲気を好む性癖があったことを振り返ってみて、苔子からも夜光虫と指摘される道理が、やはり闇姫を慕っていた心情を浮き上がらせたのだ、そう頑なに念じてしまう寂しさも間違いなく寄与していた。 もうここに慕っていたひとはいない。闇姫のなかに苔子はいても、その反対はすでに過ぎゆきてしまったんだ。闇姫に投影していたものがここにきて自ずと立ち現われてきたよ。とはいえ、決して苔子の魅力が減ずるわけではなかった。 伴侶を送ったあと、案の定もげ太は世話係の件を一刻も早く伝えたいのか、朗らかに説明しはじめた。 「明日にでも参りましょうが、気だてのよいおなごでございます。これからしばらくは独り身でなにかと不自由になりますゆえ、苔子の気遣いと汲んでやってください。なんなりと申しつけくだされ」 いつものさわやかさに増して、目尻がやや下がり気味なのがどこかくすぐったく、身のまわりなんか別に忙しい分際でもないのに、じいやばあで上等だと思っていたら、もげ太はすかさず察知したのか、 「これまでは、といいますか、ここへお見えになってからあなた様には苔子が付きっきりでしたから、今後は細々とした配慮なども補填しなくてはなりません。湯浴みなども遠慮なさらず、女中とは申せそれなりの要員として教育されております。どうぞお含みくださり、決して忍耐などなさらぬようお願い申す」 なるほどそういう思惑が働いているんだ。あっさり了解している自分がとても軽やかに思えたりしたが、そうした軽さを生み出している誘因は目に見えない空気のように僕を取り囲んでいると苦笑いした。 いずれは究明にいたるだろうって、薄皮みたいな予感が去来したけど、そのときは深く考えるのを先延ばしにしてみた。のちにこの態度は急進的な展開となってゆくわけだが、それは追々語るとして、とりあえず苔子が言い残し、もげ太が是認した女中がやってきた日へと筆を飛ばすよ。 独り座敷で無聊に苛まれている間なんてなかった。もげ太の言う通りこれまで闇姫の影を常に意識していたから、事情はどうあれ身ひとつ無為に過ごす時間が逆に外側へと広がってしまい、多分一時的にせよ自由を得たような錯覚が洞察のきっかけも一緒にあたえてくれたと思う。しかし、心境には先延ばしを願う切れ味の鈍い切っ先が横たわっているので、快刀乱麻を断つごとくまわりの空間を処理してみせるのではなく、どんよりとした雲がたれ込んでいる様相で視界が開かれるしかなかった。 混濁した意想はきらびやかな光彩を放てないが、鉛色のくすんだひかりがある種の重みを感じさせるように、こころの底辺にも不確定ながら微動だにしないわだかまりを発生させ、そこから徐々に外側が開示されていったんだ。ようはおっかなびっくりだったということかな。そこへもってきて女中の登場だ。もげ太の背に整然と佇んでいる様子からはとりとめて好印象を抱くこともなく、却って芯の強そうな目つきにちょっとした疎ましさを感じたりした。 「これは先日申し上げました娘でございます。名はおくも、しばらくお世話させていただきます。こちらは新しい旦那様だ、ご挨拶いたせ。」 「おくもと申します。若輩ではありますが、どうぞよろしくお願いいたします」 腰の低さにそつはなく、表情もまた律儀な心得からはみ出すこと知らず、実年齢を越えているような落ち着きのある愛嬌が丁重に包み込まれていて、微笑とともにひかった目の鋭さが何故かしら柔和に見えてしまった。また心持ち鼻にかかった嫌みのない甘い声色も加わり、僕は疎ましさなど放れ雲となって消し飛んでいく気がした。 「いやあ、こちらこそどうぞよろしく」 印象が覆されにもかかわらず、簡単な返答しか口に出来なかったのは、おくもが目を細めながら照れた面持ちで、一瞬僕を観察している怜悧な素振りをしめしたからだった。もちろん思い過ごしかも知れないけど、もげ太からはそれなりの要員だと聞かされていた覚えもあり、油断は禁物と咄嗟に念じたのだろう。 あらためて言うまでもないが、僕を取り巻く連中は最小限の情報しかもたらさない。現におくもにしたって、その日から僕の身のまわりに関わりながら不用意な言動をあらわにすることなく、掃除や食事の世話に専念している。無駄口のひとつくらいとこっちが差し向けたいところだけど、暗黙のうちに一線が引かれているような雰囲気はまだまだ濃厚で、冗談めいた軽口はさておき、天候や風向きを何気に話しかける機会さえ逸している有様だったから、自ずとぎこちない気構えで接してしまう。 例えば夕餉の際など、「お酒は燗になさいますか」そう訊かれて、「ああ、頼むよ」と、ぶっきらぼうなもの言いで返してしまい、そうじゃなく、寒くなってきたね、少し熱いくらいにしてもらおうか、くらいの綾をつけ足してもよかったなど後悔してみたり、「冷えてまいりましたから、おやすみ前に雨戸を引きましょうか」って、あの苔子の思い出が乗せられた問いにも、至って沈着な口ぶりで応えてしまったり、一体どうしてここまで態度が硬化してしまっているのか解せない。 僕が理性でなく本能的な嗅覚でこの距離を見極めるのは、枯れ葉が舞うのを見慣れた頃になってからだった。 |
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