ねずみのチューザー32


綿帽子にすっぽり隠された横顔はのぞき込むまでもなく、きつねの面も透き通され、始めて目にした苔子の困惑したような、苦いものでも口にしたような、けれども何やら思わせぶりな微笑が薄膜となって張りついており、それほど親密ではない知人にふとした拍子で同席してしまった場面を想起させて、儀式の緊迫からほどけてゆく心持ちをもたらした。
同様に時間の過ぎ行きもまた不明瞭な夜気にさらわれ、気がついてみれば、おどろおどろしくもおごそかだった提灯のあかりがわびし気に遠のいてゆくのを、はかなく見守っている。安堵で虚脱したというよりも本来強いられてではなく、自らこころのどこかで望んでいた実像がかすんで映っている。とらえきれない手ごたえは脳裏へ巣食った幻影にそれとなく共鳴しているからだと思った。
灯火が夜の奥へと帰っていく。僕は今宵の婚礼に会した人々が何者だったのか知るすべもなく、また伴侶となった闇姫に質してみることさえ禁句であり、儀式がつかさどる永遠の内郭に無名化されているのを黙ってうなずくしかなかった。
皆が去ったあと、僕と闇姫は薄明を怖れるまなざしを確認し合いながら寝屋へと、その足取りに幽玄な音律を忍ばせ、芳しくも激烈な交情に耽溺したんだ。夜具が怪しく乱れるより、畳のへりに爪を立てた自分に陶酔し、甘露をすすっては精をそそぎ、胸の谷間に眠った。
夜明けを告げられたのは思ってもみないことだった。これまでどれだけ朝陽をさえぎる雨戸の自堕落な軋みを耳にしてきたか。祝言が済んでしまえば、いきなり日常やらに逆戻りしてしまうのだろうか。じいが言うには、「よい朝でございます。誠にめでたき晴天です」以前からそう口にし続けたかのごとく笑みをたたえている。唖然としている顔を寝惚けまなこと峻別するかのように闇姫が語りだす。
「主様に申し伝えねばなりません。妾は身重なれば、これより屋敷を出て金目様の本山にて安産を祈願いたします。なぜにと思われましょうが、ここはもげ太殿のお住まい、妾は主様にまみえる為にこそ身を寄せていましたゆえ、出産の大事は本山が道理でございます。なれど主様にはお役目もありましょう、どうぞ、もげ太殿のはからいにて逗留いただき、妾の無事を願いただきたく存じます」
えらく丁寧なもの言いに聞こえるけど、結局それも掟なんだろって思いながら、しかも懲りずに金目様を持ち出してくるからには返す言葉もなかったよ。
「いままで主様には妾の生理に同調いただき、かような日々を送らさせたこと誠にすみません。身ごもった限り妾はもう闇姫ではなく、これからはひかりを燦々と浴びて生きてゆけましょう。主様、そうした次第でありますゆえ、なにとぞ本日より夜光虫のごとき生活から逸してくださりませ。手前の事情ばかりで申しわけありませんが」
闇姫はあたまを深々とさげ、悲嘆にくれた顔つきでそう説明するものだから、情が移ったわけでもないけど、さなぎが蝶に変化したような気持ちがして、いや、狐狸にたぶらかされているのか、とにかく無下にするわけにもいかず承知を覚悟したうえでこう尋ねてみたんだ。
「色々と内情があるのはわかっているつもりだけど、闇姫ではないとしたら誰になるわけなんだろうね。まさか苔子さんかい」
「主様の申すとおり、妾はいえ、わたしは苔子になります。赤影さん」
「ちょっと待ってくれ、苔子はいいが、赤影さんっていうのはどうなんだろう。僕は違うと思うんだけど」
あわてた僕の表情がよほど面白かったのか、あるいは彼女の肩の荷が懐妊でおり、使命なりがまっとうされた解放感からか、相好をくずしながら、
「では主様」
「その方がまだましだよ。しかし苔子さん、どこまでも虚飾をつらぬくつもりだね。金目様の本山がどこなのか別に関心はないし、あれこれ吟味するのも無駄だとわかっている。けど、きみは僕と結婚したんだろ、それなのに秘密だらけっていうのもやりきれないなあ。きみの最大の任務は僕の子種を宿すことだけだったとしたら、それはそれで認めるしかない。出産をひかえて里帰りするのも大義名分がある。ああ、すまない、きみを責めても仕方がないよな、でもなんか切なくてさ。闇姫にあこがれを持っていた身とすればね」
「当然です。どんなになじられても余りあります。闇姫は主様を惹きつける化身でした。これがわたしの宿命なのですから、、、でも苔子は必ず帰ってきます。もし、わたしが少しでも愛しいとおっしゃられるのなら、信じて待っていてくだい。あともうこれからは苔子と、呼び捨てにしてほしいのです」
こんなに表情が交替する彼女を見ることはなかったよ。僕は自分の感情をよく把握していないみたいだ。が、使命だろうが、任務だろうが、絶対の掟によって素顔を無くした境遇は同情している。たぶん過剰なくらいに。
「もうなにも言わなくていい。じゃ、苔子がこどもを連れ帰ってくるのを楽しみにしているよ。それでいつ出立する予定なんだ」
「今日これからです、、、」
「なんだってそんなに急に」
僕の涙腺がゆるんだのは間違いなかった。もう一度きみを抱く時間も残されていないの、そう言いかけて右手を差し出した。苔子は左手でしっかり握ってくれた。お互いの腕はからだを引き寄せあう為にちから強かったよ。そして僕と苔子は、乱れ飛び散った夜具のうえで激しく抱き合い、唇を重ねた。
苔子の頬からひとすじの哀しみがまっすぐに流れ、僕の手に落ちた。
「きみなしで、こんなところで耐えられるだろうか。苔子、好きだよ」
「主様、わたしも大好きです。祝福の涙と信じます。しばらくのお別れですね」