ねずみのチューザー28 じいとばあはそれ以外の無駄口は利かず盆を行灯の横に置くと身をひるがえし障子を閉めていった。 「夕餉からですから。いえ、もう朝餉の時刻です。お召し上がりくだせれ」 苔子はいつ着物を身にまとったのか、すでに裸身ではない。再び灯された行灯に妖艶な影がちらつく。僕のこころは二転三転しながら、ついに来るべきときを迎え入れたと、おののきつつも相手をいさめる語気で苔子に詰め寄った。実ることのない恋情を支えていた哀しみのほうが、どれほど幸せなひとときであったことか。 「苔子さん、貴女が闇姫なんだね」 「おっしゃるとおり、妾は闇姫。相まみえるのを願うておりましたのは貴殿の方とうかがっておりますぞ」 まさしく火花が散るみたいなやりとりだったから、苔子の表情も一変した。消えうせてしまったとは言いたくない、少女の面影はすでに湯煙にさらわれていたし、秘所に執拗なまで魅入ったうえ、からだを被う皮膚のすべてを愛撫しつくしたことで、一夜とはいえ僕は苔子に恋をした。それはもちろん幻の恋だろうけど、肉欲を通過した執着はもはや現実でも治まりはつかない。情熱はそう簡単に消えたりしないさ。何よりも僕はずっと闇姫を追い求めてきたんだ。 「やっと逢えたね。苔子であろうが闇姫であろうがもういいんだ。貴女のなかに苔子はいつもいると信じている」 「なにゆえ、そう言いきれます。妾の術であったとすればいかがいたすおつもり」 「術だって貴女が体得したものでしょう。だったら例え分身の術を使おうとも貴女には変わりない」 闇姫の目が一段と鋭くなった。でも僕はひるまず、その目から視線をそらそうとはしなかった。別に格好つけて話しているわけじゃないよ、実際には戦慄が走り抜けていったし、夜明けまで交わり続け疲労感もどんよりと重くのしかかっていた。それは闇姫だって同じだろう、一応からだに血が流れている人間同士とすれば。 それよりも童心に帰ったみたいな気分で苔子に執着してしまい、一夜限りとの言に打たれ、泣きべそをかきそうになった自分を見つめれば、この場面は恐怖や不安を単純に通り越して、案外救われているんじゃないかって。気になる異性と些細なことで口論しながらも胸のなかでは何かが華やいでいた思い出は君にはないだろうか。 「それならば貴殿はすべて承知のうえと申させるのでしょうか」 「ああ、闇姫を訪ねてここまで来たのです。もげ太さんから貴女のことを聞かされたときにどれほど驚き喜んだことか」 闇姫の視線が一瞬下向きになりかけたのを僕は見逃さなかった。そして、ここまで保持してきたものを瓦解させても悔いはなかった。 「闇姫さん、金目教なんて本当はなかったんでしょう。卍党だって。それからもげもげ太さんも傀儡甚内の子孫なんかじゃない。ねずみの話しにしても、、、」 「さればもう一度、お尋ねいたしましょう。なにゆえ妾に」僕はそこで言葉をさえぎった。無論きちんと言い分を確認する為にね。 「山中をさまようバスの行き先には、どうしようもない不安がこめられていたからチューザーからいろいろと話しされているうちに、僕は誘導尋問にでも乗る成りゆきで、郷愁を彩っている記憶を引っぱりだし、籠のなかの鳥がさえずるように言語として意味不明であるべき様相を選びとったんだ。ねずみが人語を操る、その不条理に対抗するには絵空事へと身を投じなければ。僕にはチューザーの存在がどうしても幻覚や幻聴だとは思えなかった。だとすれば僕自身も不条理を受け入れる土壌が別口で必要になる。奴の言い分ばかりでは片手おちだからだよ。そこで卍党を耳にした途端に、幻想が果たして現実味を帯びるのか試してみたんだ。するとわけなく闇姫の名前が確認できた。僕はここしか突破口はないと腹をくくったわけさ。もげもげ太には立場的に追う側にいれたと思う。だから不本意ながらこの里を甲賀と偽ってなるだけ早く貴女と対面させるしかなかった。姪というのも嘘だろう、夜伽にしたって礼式的な意義とは違う思惑が働いているはずだと感じた」 「では妾さえ闇姫などでなく、謎の工作員と危ぶんではおらぬのでしょうか」 さすがにすべてをここで言い尽くすのは無理があると思ったので、 「僕は不条理に飛び込んだわけです。貴女がその試金石といえる。なぜかといえば、僕は小さい頃にテレビで闇姫を観てから恋をしていたからなのです」 「これは随分とけむに巻く口上、妾のお株を奪いとるおつもりか。なれどそれもよろしいでしょう。貴殿は大変な齟齬に気づかぬ様子、不条理とやらの神髄をしかと見届けるがよい。妾もおちから添えいたしましょうぞ」 鋭利なまなざしが反転し、より秘められた危険なひかりを放ちながらそつない口ぶりで応じる。 「もちろんだとも、だけど闇姫さん、墓穴を掘ってしまったようだね。貴女の狼狽こそ僕の出方を探っているよ。しばらく僕に張りついているのが使命なんだろう。ねずみによれば僕は何かの鍵みたいなものを握っているじゃなかったっけ」 そこで闇姫は急に笑いだした。 「これはまたおかしなことを申される。記憶も定かでない貴殿がどれほどあがいてみても突破口とやらも、鍵とやらも顕現いたすことなどありえませぬ。ねずみ一族の心遣いをいかように感じておられよう。黙して刹那を過ごされてこそ身上、妾を好いておられるのならば」 「僕は美しくだまされたいんだ。確かにチューザーからにぎりめしなど食べさせてもらったり、気分を害するような態度もなく親切にされた。信頼もしていたよ。でも夜伽まで弄するのはつまるところ懐柔策だろう。貴女にも美しく泣かされたよ。雨戸が閉まる音を耳にするまではね。それから決定的だったのはそこに置いてあるにぎりめしさ。チューザーはこの屋敷にいるはず、そう直感した。昨夜の光景を天井裏からのぞいていたかも知れないと。大人の迷子にとってチューザーは心強い味方でもあった。だからその不用意なにぎりめしが僕にすべてをあからさまにした」 |
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