ねずみのチューザー29


「朝餉を食べ雨戸によって再び閉ざされたされたひかりなき座敷で熟睡しろと、そして昼と夜の区別もつけられないなか、貴女と交わり続けるわけですか」
ほとんど怒号に近くなっていた僕の詰問に対し、闇姫は反論することなく黙ってうなずいた。実際にはここが終着点だった。すべてを言い尽くすどころか、僕の立場はここから一歩も踏み出せない仕掛けにはばまれていた。失った記憶への感謝も所詮は都合しだいで落胆に転じてしまう。
その後のあらましを書き記すにはいくらか抵抗があり、しかも君の想像通りだろうからあえて詳細はひかえたい。でもこの数日間、といってもほとんど時間の感覚も失せてしまっているのでくり返しを避けるために、多少とも衝撃的なことがらだけを話しておこう。
連日にわたって僕は闇姫の女体に溺れ続けた。朝餉だって夕餉だって、おそらく昼餉もあったかな、とにかくしっかり飯は食べさせてもらったし、リポビタンもユンケルも酒も茶も毎日飲ましてくれたよ。女体に飽きなかったのかと問われれば、即答できる。「飽きる間などなかった」とね。
闇姫は「また苔子と呼んでくだされ」そう人格変異の術で徹底してまどわしてくれたから。あるときなど「あなたさまを赤影と申してよろしいでしょうか、苔子の際には赤影さんとなりますが」と、琴線に触れる文句とともにしなだれる仕草で悩殺されてしまうし、湯船にも一緒に浸かったり極楽気分を満喫、もうすっかり愛欲生活にまみれていた。
僕にはもう薄々わかっていたんだ。生活はいつも安全日でしかも闇姫は自分を搾乳機と同一視しているのか、毎回きまって最後の一滴まで精を吸いとる。僕が種牛なのがここにきて判明したわけだ。これが鍵ならなんという喜劇だろう。しかもそんな環境に甘んじている僕も相当いい加減なもんさ。
ねずみはあれから姿を見せなかった。種牛が奴らの目的だったなら計画が遂行された今、顔を合わせる必要などなかったんだろう。もげもげ太とはしばらくしてから婚礼の打ち合わせで面会した。相も変わらずの好青年ぶりなんだけど、言っていることは酷い内容で、苔子との縁組みは金目様も祝福しておりますとか、闇姫の存在が自明なのにまだしらをきっているんだ。しかもこの婚礼のどこに意味があるのかさっぱり理解できない僕の境遇などまったく度外視したまま、さっさと日取りを決めてしまい、
「どうぞ、いたらぬ姪でございますが末永く可愛がっていただきとう願います」なんて、涙目で切々と口にするんだよ。すっかりふぬけになっていた僕は、闇姫愛しさから逃れられるなんて考えるだけでも面倒だったから冬支度に入るまえにはとの言い分に承諾してしまい、いよいよ婚礼の日を迎えることになった。
こうかいつまんで話しただけで、おおよその見当はつくだろう。ねずみともげ太は僕の胤を得んが為に画策してきたんだ。ただ、どうして僕なんかの血脈が求められるのかは疑問として徹底的に残る。以前チューザーに聞きただそうとして、埒があかなかったままなおざりにしておいたのがいけなかった。あのときは真意を探りだしたい反面、幼児期の光景が妙にまばゆく、原体験の核心に触れることがその年齢と歯車をしっかり合わせているようで、揺籃から抜け出すことに怖れを持ってしまい、ついつい玩具のままミューラー大佐を仮想の世界へ置いてきたように思う。どう推量してみても秘密結社の黒幕と、僕が手にしていたビニール人形との間には隔世の感どころか、逆立ちしても接点すらまったく浮かんでこない。この荒唐無稽な示唆にはなからさじを投げていたこともあって、いくら事情をつかみ取りたくとも空すべりの連続に終わるだけだと、自分の存在意義を吟味してみる意欲もそがれていったわけさ。そうなれば種牛に黙って甘んじているのも仕方ない、仔細はいずれ知ることになるかも、とにかくこの情況へ無闇に刃向かってみたところで結果は見えているし、なんらかの因縁があるだったら遅かれ早かれの問題だ。
今すぐ獲って食われるよりはまだましかなどと、心労をなだめすかしながら奇妙な婚礼に糸口を結んだ。明日の晩がその儀式となった夕餉の際、僕は闇姫から朗報を受けた。
「お喜びくださいませ、懐妊いたしましたようでございます」
何やら少々日にちが早いような気もしたけど、婚礼を明晩にひかえた心境には、ちょうど小鼓の渇いた音色が響く按排でしかなく、かえって幽玄な調べに幻惑されたよ。闇姫の満足気な面持ちを察することなく、小雨が落ちてきた外の気配が胸にしみわたり、冷や酒のほろ酔いで夜景の向こうに目線が泳ぎだした頃、雨水の軽く流れるような誘いにそって、静かにまぶたを閉じてみた。
一瞬障子の白さが残像として夜に挑んでいるかの鮮烈な印象がよぎってゆき、小雨と寒さに震えて鳴いている地虫の音が遠い山間まで続いている錯覚に聞き入った。耳鳴りにも似た微かだが、座敷の奥まで突きさってくる音感が心地よい。婚礼の段取りなど一切聞かされてないにもかかわらず、いやに泰然としているわけも深追いしなかった。ただ、ひとことだけ質問してみた。
「貴女は闇姫だから日中を避け、宵に式をあげたいのだろうけど、雨戸は解放されているのかい」
闇姫はいかにも良識を得た態度をしめすように、
「明晩は月夜でございます。今宵の雨は清浄なるしるし、深い秋の夜こそ月光がふさわしいものです」と、快活な声で言い放った。