ねずみのチューザー23 再び訪れた沸点のあとを湯で流し、自若として風呂場から出た。脱衣所らしき手狭なところだったが、苔子に連れられここで衣服を脱いだ記憶もおぼろげで、多分それは宙に浮いたような心持ちのせいだったろうけど、入り口なんていつも覚束ないものだと苦笑いしてしまったよ。いまは一応出口だから平静な目で足もとやら壁やらを眺められる。籘のかごに浴衣らしきものが折り畳まれているのは、僕の為に用意されたに違いない。だが、それまで身につけていた衣類はどこにも見当たらず、ましてやどんな格好であったのかさえ完全に忘却してしまっていた。まわりの土壁は電球の明かりを吸い込んでしまっているみたいに、鈍い反射で取り囲まれている。鏡もなかった。 すると今しがたまでの欲情が別のすがたで立ち現われてくるような気がして、幻惑のなかに泰然と居座っていた不遜な思いは失意にも似た影に招き寄せられ、悔恨の情へかられていった。とはいえ、それほど深く滅入ったわけでもない、ただ何となく物悲しくなっただけさ。底意地の悪い戯れとも見なしたくなかったし、鏡の有無をあえて問いただしてみる気力は、続けざまで放出した精の気だるさに従い虚脱を覚え少々萎えたに過ぎないとね。 柔らかそうな白いバスタオルも置かれていたので、秋の澄んだ空気も手伝って汗はたやすく拭われ、浴衣だとばかり思っていたものが、真新しい作務衣であるのを知ったとき、萎えた気分は不思議に速やかに遠のいてしまった。生成り色した上下の脇には同じ色合いの下着も添えられていて、無心のうちに着込んでみた。木綿の肌触りがとても心地よく、作務衣を見下ろしている自分の表情さえ思い浮かんでくる。 勝って知った心意気でひとり苔子に案内された廊下に出て座敷に戻って、畳に寝転がってみてようやく、淫靡なささやきを胸のなかに解放する出来たんだ。あれは「夜伽」を意味しているんだ、と。そしてそんな歓待を受けることを訝し気に計ってみるよりも、素直に情況を認めてみれば、どうにも避けがたい渦のなかに巻き込まれているのが判然とするじゃないか。推論に狂いはあるまい、もげもげ太の計略によるものか、チューザーの指令なのかは見通せないが、こうまでして僕を引き込みたい思惑には首尾一貫した信念が感じられる。色仕掛けをもって味方に取り込む手管は古今東西、定番だからね。 僕が安堵したのは、いくらでも可能なはずなのに彼ら決して威圧的な手段を選ばず、こんな古風な筋書きでより深い接近を望んだってところなんだ。ここらで再度この奇妙な立場を理解するのに肝心な部分を整理してみよう。 世界情勢とか国際組織には無縁だと考えていたこれまでの自分を取り巻く現実は、静かに音を軋ませ歪みかかってしまっている。偶然というかたちにしろ、僕の方から臨んだとは了解するにはかなり無理があり、何故かは分からないけど記憶の大半をなくしたままで、邪推を含めれば記憶の剥奪もひょっと計画的かも知れないけど、とにかく彼らの活動に協力する羽目になっているようだ。しかも洗脳による一方的で暴力的な参画を求めてはおらず、あくまで僕の決意を重視しているのがこれまでの接し方から十分うかがえ、そこに謎は沈滞している。以前確か現象学に触れたことがあったよな、徹底した懐疑をもってふるいにかけるよう本質に迫ろうという態度だ。もちろん想像とかの余地も残されてはいるし、五感をくぐり純正培養される残滓から導かれる答えがすべてとは言い切ることは乱暴すぎて、疑念が常に付随してくる動的な思考を捨て去るのは経験主義以前のひとの業だよ。だってひとの感性なんて受け身だけでは割り切れない、つまり受け手であると同時に僕らは意思をそこにはらませ、交換とも呼べるやりとりがいつも稼働しているからさ。闇夜の道中を懐中電灯で照らす、現象はひかりの世界に浮かびあがり道筋を明瞭にさせるけど、そもそも明瞭にさせたいのは闇雲にあたりを照射しているのでなく、夜道を安全に渡って行きたいという願望に強く裏打ちされている。 世のなかであれ、身近な道のりであれ、場面の選択であれ、僕たちが照らしだしたいのは根源的な箇所に限定されるほど高尚な質だけではない、もっと卑近で猥雑な目移りも同居しているわけさ。だから現象学が後に批判される最たる要因は、懐中電灯の機能にあるのじゃなくて、その発光体を握りしめた手、更にいえば光源そのものに潜む欲望を半ば切り捨てようと意識した不用意にあると思う。照射される道筋だけをたどる行為はそれ以外の世界を認識から葬ることで、残念ながら新たな二元論を擁立させてしまった。ひかりを記述に置き換えてみれば一目瞭然だね、記述自体は必ずしも精確とはいえない。 無意識の心理学が結局、思弁を駆使した仮想のうえに成り立っているように、厳密な意識もまた幾重にも折り重なる綾を追う終わりなき幻想に最後は出くわす。かといっても無理強いしてまで意識を分断してしまうのが正しいのか、どうかは僕にはよく分からない。ただひとつだけ明言したいのは二元論を許容した時点で、あの世とか異界が、もしくは絶対的な代物が台頭しざるを得ないという仕組みなんだ。 僕は感謝しなければならない、記憶が曖昧な事情からの出発であり、ある意味純粋な思念だけを見届ける境遇にいるから。 鏡は脱衣所の土壁に掛けられていたのかも知れない。僕はそこに映った顔を認めまいとしただけかも知れない。だが、どちらでも一緒ではないだろうか。意識の領野を追い求めては探りつつ、切実に道標を乞いながらも異界へと迷うことに分け隔てはしたくない。ひかりは闇と共にある。 |
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