ねずみのチューザー24


夕暮れは一気に深まった。秋の宵口に歩調を合わせたのはいうまでもないだろう。夕餉の膳を運んできたのは門前で挨拶を受けた、じいとばあだった。いつの間にやら天井の明かりが座敷を静かに照らしている。こんな古い家屋だから燭台とか行灯が具されているのかと案じていたけど、以外と電気が通じているんだ。そういや風呂場周辺に薪の燃える匂いはなかったようで、もしかしたらガス湯沸かしだったかもね。
家の外をじっくり見回したりしてなかったので、はっきりしたことはわからないが、走行距離は長かった割にそれほど標高ある土地特有の空気ではないような気がする。山深い里であるのは違いないみたいだけど、近くに山村が開けていて他にも民家があってもおかしくない様子がした。本当にここは甲賀なのか、そんな疑念もかすったりしたが、実質的に重要視されるのは映画のセットがいい雰囲気をかもしてくれて、金目教の末裔やらが似非史伝とともに存在しているというときめきに尽きるんだ。
じいがいうにはチューザーはねずみの会合に出かけてしまい、どうやら僕ひとりこの座敷で食事をすることになってしまった。もげもげ太も苔子も一緒でないあたり、またチューザーも伝言だけ残して居なくなってしまうなんて、幾分よそよそしさがあるようにも思われ一抹の不安も翳ったけど、「夜伽」を待ち受ける側からすれば、この方が気楽といえば気楽で、これも細やかな心遣いかと内心うなずいた。
座敷に運ばれたてきたものは、こころの片隅にとって大事な栄養素となる夢見の確信であり、薄暗くなった夜気にまぎれこんだ香しい罠だった。湯煙の向こうに見え隠れしためくるめく悦楽がこんな近くまで忍びよっている。僕は自分の顔に遊戯の始まりを確認した歓びと、その敗北を知る不敵な笑みを同時につくりだしているのを感じ納得した。
料理は山里にふさわしい品々で、川魚の甘露煮、茸と山菜の天ぷら、柿のくるみあえ、茶碗蒸し、大根のみそ汁、おろしそば、それに赤飯も添えられていたよ。あと升酒。
どれから箸をつけようか思案するまでもなく、升酒に手をのばしかけて、やっぱり川魚からいただくことにした。目のまえに膳を並べられると空腹感が一層募ってきたからね。
「これはヤマメですか」
「左様でございます。この辺りではよく獲れるのです」
ばあが目尻をさげながらそう答えてくれた。茸や山菜も同様に種類など尋ねてみたかったけど、今度はじいが詳しく説明を始めそうだと勝手に決めつけて黙って口にした。ああ、おいしいかったよ。山菜は名前は思い出せないけど春先によく見かけるものを塩漬けにでもしてたのだろう。茸は今まで味わったことのない肉厚で歯切れのいい食感だった。茶碗蒸しは対照的にとろけるくらいのだし加減で舌にからまり、具材として閉じ込めらている、ぎんなんやたけのこ、魚のすり身のような固まり、椎茸などが柔らかな黄味のなかからつつまし気に顔をだすと、僕の気分もなごやかなになり升酒をひとくち飲んでみる。木の香りこそ酒に移ってはいないものの、唇と一緒に上下の歯が枡のふちに微かに触れて、異質な感じを口内にあたえてくれた。軽くのつもりが勢いを増したのか喉ごしもあきらかになり、一気にあおってしまいそうな調子だったので、代わりにみそ汁の椀を手にした。別にひといきに飲み干してもよかったけど、空きっ腹に染み渡るのがしっかり分かったからほどほどにしておいたんだ。だって最初のひとくちが流下した途端にあたまの中がくらりと揺れるのを実感したから。
酔いがもたらすのは揺らぎだけではないね、すかさず含んだみそ汁のなんと程よい塩梅、千切り大根と油揚げの相性も加わって、鰹だしとみそがあらゆる記憶を溶かしこんでしまうかと思えるくらい、濃密でありながらあっさりとした味つけ、それがまた塩気を脇にかかえつつ佳味に転じてしまう。この芳醇さ、懐かしさも通りこんでしまい根底に横たわっているものは一体何なんだろう。遥か遠方に気持ちがめぐりかかったとき、不意にねずみのにぎりめしを思い浮かべたのも仕方ないこと。あれからどれだけ時間が流れたのか、つい昨日のようであり、随分と日にちを経た気もする。そんなときの推移に目配せでもするよう小茶碗に盛られた赤飯へと意識がうながされていたものの、この品だけはどうにもいわくつきではないかという観念が離れず、青磁皿に平たくのせられたそばへと食指は動き、その大根おろしは、さながら台地の中央に降り積もった白雪を彷彿とさせては、すでに味覚を先取りしてしまったかの錯誤させ生じてしまう。汁はやや深みをもった青磁皿の底にひたされている。自然が織りなす色彩を損なうような所懐にとらわれながらも、積雪を掘り返して土と交じり合う要領で、箸の先は水分を滴らせおろしそばを僕の口まで上手に持ってきてくれた。そば粉独特の滋味にわずかに辛みを帯びたおろし、そして両者をなだめるように主張してやまない汁の奥深いこれまた鰹だしの濃い味わい。
みそやだしに秘伝が備わっているのは訊くだけ野暮かと、じいの面持ちをちらっと見てはためらっていたが、絶妙なそばを食した矢先、
「このそばは手打ちなのでしょうか」と、意気さかんな声を出してしまったんだ。
「いえ、これは市販の乾麺でございます」
じいはもそもそっとした口ぶりでそう言った。
「あ、そう」
僕の反応に揚々とした響きがなかったけど、別に落胆したわけじゃない。十分な夕餉だった。