ねずみのチューザー2


あの情況をよくよく振り返ってみれば、平静を保っていたのか、幻惑され魂が半分くらい引き離されていたのか、よくまあ取り乱さずにその場へ座りこむ調子でねずみとすんなり会話しだしたもんだと、我ながら感嘆してしまうね。だって、「怪我はないようだが、バスは転んでるし、第一その紀州藩っていつの時代なんだい。ひょっとしてこれタイムスリップなのかな」などと真顔で問いかけていたんだから。
「いえスリップしたのはバスのタイヤでしてそれがしの未熟によるもの、いまは二十一世紀に他なりません」なんて面目なさそうにこたえた姿勢がまたなんともいえない哀感があって、ついつい情にほだされてしまい、「なるほど、色々と訳ありの様子だね。よかったらわかりやすく説明してもらえないかなあ」そう発した自分の声色にもどこか風情がこもっている心持ちがしてきて、増々恐縮に身をこわばらしているねずみから目をそむけられなくなってしまったんだ。
そんな按配なわけだったから、突然の異変に対応すべき心情を書きつらねるのは割愛させてもらうとして、虫左とやらが語ったことがらをまずは簡潔に記しておくよ。
訊くところによれば、紀州藩うんうんというのは彼の先祖をさしているのだそうで、特にもったいぶったもの言いをしたつもりではなく、思わぬ事故を目撃された動揺をただすためにも己の出自を明らかにしたうえで、慎重な挨拶を怠らないよう努めたまでのこと、無論現在では武家制度のなごりは祖霊のなかに生き続けているのであって、連綿と仕来りを守り通しているまでもない、ごらんのように着物も身につけておらず小動物らしく毛皮を身上とする生き物であるから、時代錯誤は形式のうえと判断されたく願いたい、先祖代々の由来を述べる煩瑣は省略させていただき、なにゆえにねずみの分際で無人バスなど運転していたのか、またどこへ向かおうとしていたのか、なにより人語を解するすべを奇怪に感じられるであろうが、そうした疑念を晴らしてまいりましょうと、とても一匹のねずみがくりだす口上とは思えない毅然とした素振りなもので、とにかく圧倒されたというより、かつて感じたこともない熱いものがこみあがってきて、ここでこうやって奇妙な対話がなされている事実がより鮮明になって現実味さえ帯だしてきた。もう疑心も迷いも吹き飛んだね。君も、虫左の言葉に耳を傾けてくれるかい。おっとそのまえに信じられない光景を目にしたんだ。横転したバス、音もなく静かに横たわったままだったから、ついついねずみの話しに引き込まれてしまい、めったに遭遇するものでもない事態を忘れかかっていた。びっくりしないで落ち着いて聞いてほしい。虫左は四輪が手放しになって所在なく腹をさらしていたバスの反対側にまわりこみ、低くうなり声をだしたかと思うとなんと一気に横倒しの形態からもとの威勢のいい車体に戻してしまったんだよ。これにはさすがに仰天した。さっき放棄したはずの疑心がブーメランとなって返ってきたような気分だった。それから悠然とぼくのまえに現れた当の虫左はなに食わぬ顔でこう言うじゃないか。
「さあ、立ち話もなにですからどうぞ乗車してください」
「そりゃどうも」
そうなったらもう自動ドアが開いたのかどうかも記憶のないうちに車内の座席にかけていた。一番うしろの席だったけど。すでにバスは走りだしていたよ。どこに向かっていたのだろう。それは追々見えてくるから今は詳しく言わないでおこう。それより運転席にはねずみなんだけど、君にはどうも想像しづらいだろうなあ。ねずみといってもはつかねずみくらいの大きさでさ、ハンドルにしがみついているんだけど、とても運転している姿には見えないし、手足だってブレーキやらアクセルにはほど遠いから、おそらく自動運転装置かなんかじゃないかと直感した。そうでもしない限りあのバスには乗ってられなかったんだろうな。おさるの電車ってあっただろう、あれの百万倍は不安だったね、でも最初の間だけさ、一応道沿いを乱れることなくスムーズに走行していったから、外の景色に気を奪われている安楽さを知ったときにはほとんど身をまかせていたし、虫左の話しが切り出されだしたから、すっかり不信感は消えてなくなった。でもさっきの魔法みたいなちからわざをまのあたりにした残像は消え去らなかったんで、それこそ反射的に口を開いたんだ。君だって絶対ぼくとおなじ質問を投げかけたに違いないと思う。それは言うまでもなく、奇天烈な現象に対するあおりさ。
すると、「それがしは幼年の折からいのししと相撲をとっておりまして、とは申しましても生後ひと月くらいはうりぼうが対戦相手なんですが。そういう次第でこう見えましても案外馬力はあるのでございます」
「そりゃ馬力どころじゃない、怪物並みじゃないか」と、返ってきた答えに半ば憮然としたら、「そのうちあなたさまのお役に立つこともあるでしょう」生真面目というか、その語感も得体が知れないだけにそう言われてみれば反対に不思議と説得力あるんだな、これが。
「さあ、それでは謎ときといたしましょうか。さきほど申しました疑念を解明していくわけでございます」
このバスとすれ違ってからどれだけ時間がたったのか、いや、もしくは時間は凍結されているんじゃないか、などふと我を見つめる余裕もどうやら車窓を流れる景色に即し、ぼんやりと物思いに耽りながらも内容のない、実体のない、空間を漂っているような反応だけが眠気をともなって過ぎてゆく。現実感が希薄になりかけているのはやっぱり異次元に紛れ込んだしるしかも知れない。まあいいさ、その異次元とやらもついでに欠片でも謎とけたらこんな未知にそうそうめぐりあうこともないだろう。ねずみの虫左の顔をまじまじと見つめていると、悲しいのやら楽しいのやら分からなくなってきたんだ。