ねずみのチューザー1


別に隠していたわけじゃなかったんだけど、いくら君でも「はいそうですか」なんてすんなり信じてくれないってわかっていたから、話すことにためらいは無論あったさ。でも、どうやら妙な誤解に発展しそうな気がして、その誤解もとてつもない方向でないにしても、ささいといったらなんだけど、つまり下世話なありきたりな、そして見苦しい結果を招いてしまって結局は深い溝をつくってしまうじゃないかと思った。もちろん溝を掘るのは君だけではないし、不本意ながらでその原因を明快にしないまま指を加えて煩悶しているのもどんなもんかと、想像するまでもないよね。で、直接会ってこと細かに説明したいのはやまやまなんだけど、おそらく話しはじめるやいなや君は、「それってどういうこと」とか「わたしには理解出来ない」とか「そんないい訳やめて」とか言い出す場面が目に浮かんでしまうから、こうしてメールで書き送ろうと考えたのさ。一方的だと非難されても仕方ない、だけど話しの合間に生じる疑問符から感情的な流れが必ず生じてしまう気がして、するとただでさえ珍妙な記述は輪をかけて先行きが怪しくなりそうだから、きっと頓挫してしまい何も伝えることが出来なくなると思案したあげく、あえてこの選択をとったんだ。
なるだけ、要点をしぼって書くつもりでいるから疑問や謎はひとまず片隅に置いといてもらえたらうれしい。もっとも不可解を感じるのは仕方ないことだし、あたまから鵜呑みにしてくれまでと求めてないからさ、風変わりなんだと念頭においてくれて結構だよ、とにかく聞いてくれるかなあ。

こないだバスが横転するのを目撃したってのは教えたよね。小旅行ときめこんでS市に行ったときのこと。ほんと脇を走り抜けた瞬間からえらくバランスがおかしいなって見ていたら、スローモーションみたいに残像が焼きつくほどの緩やかさで、一時は冗談だろって訝っていたけど、傾きが尋常じゃないと危険を察知したときにはすでに横転していたんだ。これはえらい事故だって鳥肌総立ちのうえ、心身とも硬直してしまい、目が点になっているのがありありと自覚できたよ。
ここまでは真顔でじっと僕の言うことに反応してくれていると浮かべられる。しかし、「怪我人とか大丈夫だろうかって恐る恐るすこしだけバスに近づいてみると、なかはまったくの無人で誰も乗車していなかった。映画なんかであるように事故後の爆発も危惧されて、それ以上足がすくんで間近まで寄って見ることが出来なかったんだけど、あきらかにひと気がない。それでも僕は視力はいいほうだから運転席まで確認してみれば、やっぱりひとの姿がない。国道からけっこう山村へと奥まった農道みたいな道路だったから、あたりに民家も見当たらず、道ゆく影も皆無で僕ひとりがその無人バスと向き合っていたわけなんだ」
と、話したとたん君の表情は浅瀬にたたずんでいるような笑みが含まれた翳りをあらわにするだろうね。
「それって本当にあったの、夢でも見てたんじゃないの」
そう言って、困ったふうな気持ちが眉間にしわを寄せさせているのがありありと目に見えるよ。
おそらく僕だってそんな光景を聞かされたら同じく眉間にちからが入ってしまったろう。だけれど、そこから切り出さないとその次へはたどり着けないから、信憑性がないにしろどうせもっと仰天する事柄へと向かうことだし、冷ややかに君の態度を観察でもする気分で話すぐらいが丁度いいかも。
一匹のねずみの件になって始めて、自分でも夢語りをひもときだしたんだと意識したね。そうだよ、君の顔色を一変させるに違いないあの奇妙な出来事さ。
「それでそのねずみはどこにいるっていうの」
今から思えばあのときの沈黙ってけっこう長く感じた。君が努調を帯びた詰問を発するのを耳鳴り以上に意識したのはあれが最初だと記憶している。思いこみが甚だしいのは承知のうえで続けるけど、そのまえの情況を聞こうとせず、ねずみを出して見せろの一点張りだったし(ああ、そう責められてるふうに感じてしまうんだ)僕は僕で真剣に話しているつもだったから、横倒しのバスはまるでミニカーが転んだみたいに無傷で、エンジン音もなく、不気味といえば不気味だったけど案外気は落ち着いてて、そのねずみだけがいつの間にやら僕の目のまえにはい出してきた、それで思わず手をのばしたら警戒した様子だったけど、まるで挨拶でもするように、ぴたりと動きをとめてじっとこっちを見返し、その距離が人間とねずみの間合いにしてはすでに親密な位置にあると変に感心していたら、
「こんな場面で恐れ入ります。訳あってこの地にやってまいりましたが、貸し切りバスはどうもいけません。運転手がいないっていうのでそれがしが慣れない手つきでもってどうにか走らせてきましたところとんだ失態を、通りがかりのかたとお見受けいたしますが、ご丁寧なおこころざしいたみいります。それがしは紀州藩武芸指南役の小動物子弟筆頭、ねずみの虫左と申します」
と、ひとの言葉を巧みにあやつり喋りだしたんだ。
こっちはまだひとことも言ってないのに、おこころざしとか頭を下げられたときには一瞬相手がねずみの姿をしているのを忘れてしまっていて、今から考えても面白いもんだ、夢うつつだと指摘されてもまったく無理ない。さて、これ以上聞く耳を持ってくれは知れないだろうけど、勝手にこれから僕とねずみの不思議な物語をはじめるとしよう。