ねずみのチューザー11 バスが停車するときまで、走行にまぎれこんでいった想念が窓のそとを煙らせてしまったのだろう、かわり映えしない山並みとはいえ、目に飛び込んでくるはずの景色のうつろいに注意が傾かなかったのが意外な効果をもたらした。 突然開けた光景をまのあたりにした当惑は、さましまな驚きに差し替えられ、胸のなかでざわめく魚影となって、実際に広がっている大きな池に向かい合ったんだ。 「ずいぶん静かなところだけどこんな池があるなんて」 左右の視界に収まりきれそうでもあり、そう願う心持ちがちょうど一枚の風景画のように閉じた美しさを演出しているふうでもあった。 「妙心池といいまして、何でも大蛇が眠っているそうでございます」と、チューザーが説明する。 「よくありそうな伝説だね。それにしてもこの静寂は神々しいくらいだ」 そうなんだよ、朝から快晴だったんけど、この静かな池を見つめているのが、なにやら逆に落ち着きをなくそうと努める加減があって、わざとらしくも空を見上げれば雲ひとつない秋晴れだし、肌に感じる微風さえ生じていなかったのも、柔らかな陽射しの感触が静かに代弁してくれていた。 それで水面はさざ波のかけらもあらわにせず、まるで巨大な鏡が敷かれているのではと表現したいくらい、形よい楕円をした池が醸し出している幽玄さに面食らったわけ。変な言い方に聞こえるかも知れないけど、じっと眺めているのが惜しいみたいな気もしながら、視線を送れば送るほどに逃げていくというよりかは、どうあっても全体的にうまく受け取れないもどかしい感じがして、多分それはこの池だけのせいでなく、僕自身の感性にひずみが起きているからだと思ったりした。こんな感覚は以前にも経験したことがあったように想いだされ、それは岬から見下ろした音なき波頭を抱く海原であったり、普段とは明らかに色合いを強調する夕陽の広がりであったり、無心に流れゆく川面の細やかな飛沫であったり、とにかく立ちすくんで正視しているのが居たたまれず、大自然に心身が被われているといった境地にはまったく及ばないんだ。そうだなあ、僕とそうした絶景のあいだに薄皮で作られたカーテンが垂れ下がっていて、常に遮蔽されている感触、向こうには美し過ぎる世界が待ち受けているのだが、その光景と一緒になることが難しい、僕のほうから拒絶しているのでもないのに、どうしても不安気に目をそむけてしまう。まあ、目をそらしたってその場から立ち去らない限り視覚以外の手応えもやってくるわけだから、結局は奇妙な自意識が電化機器の微細な音のようにいつまでもへばりついているのだろう。そういや散歩している途中には案外すれちがってゆく空気と一体になれる。あれは何故なのか、急にある音がよみがえったよ。山腹に民家が点在する道を下りかけると、いきなり潮騒が聞こえる箇所があったんだ。道は山肌に沿い結構くねっていてガードレールに引っかかる具合で木々や草がのびてきているので、まさかその真下が磯だとは思ってもみないから一瞬とても不思議な感じがして、立ち止まってよくよくのぞきこんで見ると、確かに海水が岩に被さっている様子がかろうじてうかがえる。それから幾度かそこを通るごとに波に洗われる心地がしたものさ。 そんな記憶がかろうじてめくれていたから、ヨーロッパの深い森にひっそり眠れるようなこの池の静謐な透明感にも、魅入ってしまいそうになる自分を意識するたびに邪念が介入して、折角の絶景を慈しむことが出来なかった。もちろんまわりには僕らのほか息つかいの気配もないし、呆然としたまま澄みきった蒼穹を映しとっている水面に見とれてしまおうとする考えも虚しく、せめて大きく深呼吸でもして新鮮な冷気を肺に送りこんだのさ。 こう書かれていれば、そんなに美しいところも所詮は台無しだったかと思われそうだが、実はそうではない。よい具合で腰掛け代わりの切り株がほとりに備わっていたので、そこで朝餉をいただくことにした。もげもげ太はこの池の妖しい美しさに感極まっているようだったけど、特に感想を述べたりはしなかった。僕と2メートルくらい離れた切り株にゆったりと腰をおろしたところで、チューザーが小型のリヤカーみたいな荷車を引きながら、ねずみのにぎりめしとやらを配ってくれた。見れば的中、竹の皮に包まれているじゃないか。小躍りしたい気持ちでチューザーと目を合わすと、そのつぶらな黒目は池のほとりにふさわしいひかりを含んでおり、顔からはみ出したひげ先もまたピアノ線がしなやかにたわむかのように水気をおびた艶に輝いている。リヤカーの引き手に乗っているちいさな指にはとても愛嬌がって、不意にあたりまえのことだけども、こう尋ねてみたくなった。 「これはチューザーが作ったのかい。竹の皮なんてシャレているなあ」 すると、「それがしがこしらえましたと申しても、いやはやごはんは冷凍でございまして、バスには簡単な設備もありますので、適当に具を入れたまで。お口にあいますやら」少しばかり恥ずかしそうにしている。 「冷凍だろうが平気だよ。僕はこの竹の皮がすごく気にいった。実はそうであればいいなって想像していた。ついでに竹筒の水入れもなんてね」 「それは恐縮でございます。残念ながら竹筒の用意はありません。お茶はただいまお持ちします。ティーパックのほうじ茶ですが。それからジュースなども冷蔵庫で冷やしてあります」 「いいよ、いいよ、僕がとってくるから」とは言ってみたものの、ティーパックやジュースには肩すかしをくった。でも仕方ないよな、バスのなかにキッチンなんかなかったし、いくら怪力とはいえ小動物に風趣を期待するほうが間違っている。竹皮だけでもたいしたもんじゃない、ねえ、君だったそう思はないかい。なんだかんだで欲張るからいけないんだ。えっ、ねずみは手でにぎりめしを作ったかって。そうだろうね、解凍したごはんに具とか言ってたから。何のためらいもなくそれを食べたのか知りたいんだろ。ああ、別になんとも思わなかった。それより、その味を教えてあげるよ。 |
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