ねずみのチューザー10


きっと深い眠りにおちていたのだろう。目覚めてみたり寝てみたり何やらせせこましいようだが、一日は長くもあり短くもあるから別に目くじらを立てることもあるまい、それより夢のかけらさえ垣間見ずまぶたを閉じられていたのがとても新鮮に思え、寝入り際の感傷も朝露となって頬に残っているような錯覚さえ生じたのだから、その朝陽がどれだけまぶしくすがすがしかったか想像してほしい。
「よい天気でございますなあ」
暁を覚えないまま夜風にならいひかれてしまった帳のすそから顔を出す調子で、もげもげ太の声が気味よく鼓膜に響くと、両の目はすでに陽光を受け相手の顔をしっかり認めた。一夜明けたことがこんなに初々しく感じた機会もなかったので、すっかり気分がよくなってしまったんだ。そんな感覚は子供の頃、夏休みや祭りや旅行などを心待ちにした、あの時間を湯水とも知らず彼方へかき分けようとした無為な高揚に似ていた。そして一日の境界をひとまたぎする不敵な笑みも夜霧のむこうに健在であるのが透けて見えたから、なおさら朝露をそっと頬のうえに感じてしまったのかも知れない。
「バスは動いている。ねえ、夜中も走り続けていたのかい」僕は権限でも主張する声色でそう尋ねた。
「走ったり停まったりしておりました」すかさず返答したのはチューザーで、「それがしは夜行性でありますゆえ、適度に休息しながら運転を見届けていたのです。おふたりともよくお眠りのご様子でなにより。朝が来ました」と、満足気に鼻をヒクヒクさせていたよ。いつの間にやら僕の横に座っていて、斜めから振り返る格好で見つめているもげもげ太にも礼節あるまなざしで微笑んでいた。おそらくはこれからの任務というか目的に向かう心意気というべきものを示していたんだと思う。
僕は寝起きの状態だったけど、いくらさわやかな朝であってもまだまだ胸のなかは、暗夜行路と呼んだほうが本音だから、窓を差す日にぬくもりばかりを求めているわけにはいかず、そう、車内隅々を照らし出しては吸い込まれるような、金属やガラスに触れてはキラリとはね返すような、ひかりの鋭さに姿勢をただされる思いがして、そこに時間の経緯が発生しているのが嫌がうえにもまばゆかったのさ。時間はやはり過ぎているんだ、こうしている刹那刹那にも確実にいまは過去になりつつあり、反対に未来に浸食しようとも志している。昨夜は寝入る直前に「銀河鉄道」を彷彿させる幻のような光景に感激したが、僕はジョバンニみたいに無垢ではない。なぜなら過去は捨てられていながら新たな記憶を鮮明に貪欲に蓄積しようと願っているんだ。そして決定的なのは夢幻にさまよえる切符は手に入れたかも知れないけども、どこへ巡ったのでもなく、どこへ巡りたいのでもなく、ただバスに揺られ続けているだけなんだ。もちろん、何もまだ始まってはおらず仕方ないと言えばそれまでなんだが、、、この焦燥こそがまたしてもひりつく神経を呼び起こし、折角の行楽調子にひびを入れこんで気分を台無しにしてしまう、、、
さぞかし失意のどん底だろうかって。いや、あわててはいけないよ。ああ、焦りは確かに禁物だ、しかし、台無しと失意が必ずしも居並ぶとは限らない。逆に僕は焦燥に対しある種の導きさえ感じとっている。じゃなけりゃ、深い溝が出来てしまう懸念までしながら、どうして君にこうやって細々書き送ることが可能なんだろうか。答えには早いが、やはりこのひりつく加減が小刻みに血を通わせ、四肢へと巡ってゆき、やがて脳内を陣取り、鬼神の魂を施され、未来へと向きあう充血した目をつかさどるんだよ。だからこそ僕は「闇姫」に会いたいのかも。
どこへも巡れないというのは詭弁さ。一途に願うほどのものがないってだけだ。なければないで、それとなく見繕い仕立て上げればいいんじゃないか。焦ってはいけないよ。どうせなら精魂こめてやったほうがいいと思う。と、いうわけで僕にはチューザーがどうして人語を操るのか、このバスの真の到達地など、もうどうでもよくなってしまった。奇跡にもたとえられる旅として、次なる停車に胸をときめかせたのさ。
一心不乱の精神が満願に通じる方便を否定したりしてない。それはあながち間違ってはいないから、おそらく指をくわえている待っている奴などとは比較にならないエネルギーがあることだろう。ただ、どの方角にそのエネルギーを向けるかなんだよな。東西南北とか位置のことじゃないよ、鬼門なんてのも土地感ないからトンチンカンだし、天とか地とか問われても弱ったなあ、やっぱり僕にはこのバスの道が似合ってそうだから、精々祈っているよ。えっ、祈るのかって。そりゃ祈るとも。「どうぞ、恐怖新聞だけは配達されませんように」って。君だって恐怖新聞は知ってるだろう。冗談じゃない、あれは地獄だ。明日の自分が写真付きで報道されているんだよ。恐怖は恐怖でも質が違ってる。明日起きることすべてわかりきってしまったら、それこそ本当に台無しなんじゃないか。過剰な願望は醜くもあり浅ましいし、手前ながら疎ましくもあるけど、ときには限りない美しさに変貌する。
寝ぼけたあたまのなかをそんな思惑が勢いよく駆け抜けてゆくと、はたまた忘れていた大事な日常を知らされた。
「さあ、朝餉の仕度が出来ましたのでバスは停まります。なにせ山深き地、斯様に質素ではございますが、ねずみのにぎりめし、おなかの足しにしてくだされ」
そうだよ。ごはん、ごはん。そういや、少なくともチューザーに出会ってからはなにも食べていない。それ以前の食事の場面にはどうしてもたどりつかなかったから、朝餉の知らせには胸をつかれる劇的な作用があり、思わず生唾を飲みこんだのはいうまでもないだろう。
にぎりめし、、、白米を三角形丸形などに整えて握ったもの。塩加減を程よく舌が覚えるのもその形態のゆえんか、一般に海苔で包まれており、ごま塩、ふりかけなどがまぶされる場合も、中身は具と称し、梅干し、佃煮、鰹節、塩鮭、漬け物などを果実の芯のごとく潜ませては、ひとくち、ふたくちと、ほおばる程度に出くわす新たな味わい、かけがえないような喜びを見いだす。
チューザーがもてなしてくれるだろう、にぎりめしを僕はとても楽しみにしてしまって、ついつい記憶を古色なおもむきに転じさせた。そうだよ、竹の皮に収まっている、あの風情を。そして竹筒の水入れを。