まんだら第四篇〜虚空のスキャット51


晃一は顔がこわばりゆくのをどこか覚めた意識でとらえていた。際どい橋渡しなはずだけれど、平静を装ったまま歩を踏み出している宙に浮いたような空気抵抗を感じている。高所から見下ろした先へと吸い込まれてしまいそうになるめまいにも似たあやふやさが、危険を察知していながらも逃げ去ろうとしない誘惑の罠を想定してしまい、ためらいなくその仕掛けに堕ちてみようと願っている。それは秋波を送られているのだと積極的に解釈してしまう情動をともなっていたが、簡潔に型押しされることを懐疑している用心深さによって抑制され、意識下に充たされる手前で拮抗を見せていたと云えよう。
こわばりを作りだしている分子は決して戸惑いや照れだけでなく、予知された緊張がさずけてくれた乾きゆく木綿のような水分をうっすらと含んでいた。これから交わされる会話がどう展開するのか、晃一にはそんな蒸発と同じ作用で、抵抗を示さず無理のない、雲間に隠れてしまわない、陽光から届けられる送りものとなり胸の裡をかすかに焦がしながら憂いを緩和させるのだった。
この気分は欲情と無縁であるのでは、そう云った思念が突風になってよぎったのと、砂理が柔らかな言葉を投げかけた間には、まさに谷底をうかがう冷ややかな気配が濃厚に漂っていて、性欲に裏打ちされているせわし気な喜びは静かな引き潮みたいに遠のいていった。
「好きなのでしょ、、、」潮騒であるはずの響きにうらはらの想いが交差してゆく。それより先を繋がない砂理の居ずまいはしおらしくもあり、増々晃一の自尊心を曖昧なものに変容させ、花咲くときめきは不純分子を昇華しながら様々な想念が、まるで寒色に透ける映し絵のごとく淡い情感をのせて羽ばたたき、この身に巣くう不明瞭なものを旅立たせた。残像にさえ成りかけている直情は今すぐにでも手をとり抱きしめてしまいたい感動を哀感に置き換えて、あまつさえ憐れみの萌芽がどちらのこころなぞったのか知らないままに、諦めとも呼びうる波紋を描きだしている。
「ああ、出会った頃からずっと好きだったよ」別れの言葉を口にするかのような控えめな、けれども切実とした言い分を持った答えがにじみ出すと、再び相手の表情を慈しみながら見遣る。
沈黙の流れを意図した儚い期待は、陽気な女神によって美しく裏切られた。
「ありがとう。うれしいわ。今もそうなら、わたし、自分を試してみたい気がするけど、どう言えばいいのか、つまりまだ時間が必要に思えてくるの。わかっている、わかっているのよ、傷つくのを恐れていることも、不確かなまま飛びこむような行為にうしろめたさを感じていることも、、、それから何よりもひとを好きになることが不安で仕方ないことも。でも、大丈夫、別に晃一くんに応える為だけにあれこれ悩んでいるわけじゃない。本当はずっと以前から抱え込んできた問題をもう少し引きずっていたいだけかもね。取り急いで証明する必要がないってわけ。だから、、、」
「だから、、、」手渡されるバトンの要領で晃一があとを継ぐ。「それでいいのさ。背伸びしたり無理したりするのはあまりいい結果を生まない。君はぼく気持ちもきちんと考えてくれているし、自分自身の心情だって結構把握してると思う。今日こうやって話しが出来たのはとても貴重なことだよ。砂理ちゃんの不安はぼくの不安さ。それが確かめられたと信じればそれでいい。正直に言えば、今ふたりでいる瞬間をもっと明確に確かめたい、つまりは関係を深めるには裸の君を抱きしめてみたいと願っていた。でも、そう顔に書いてあるのを指摘されてうろたえてしまったのもまんざら悪いだけではなさそうだ」
「それでいいの。案外と臆病なだけかもよ。もちろん、わたしもだけど。あと一押しされたら、多分晃一くんの願いに近づいていけるような気がする。わあ、わたしって大胆なこと言っているのかなあ」
「うんまあ、投げやりなところもある。それが大胆なのかどうかは分からない。ただ、じれったさが本音を物語っているとは限らないよ。もっともっと駆け引きだけを楽しみたい思惑が臭ってくるから」
「そうかなあ、そんなゲームみたいなまねしたってつまらないでしょ。わたしはわたしで、よく考えながら返答してるつもりだわ。駆け引きだと推定してしまう方が虚しくない。その顔のうえにはしっかりと欲情が浮かんでいたけど、それって一過性の仮面なの。晃一くんはさっき、わたしの不安はぼくの不安って言ってたけど、そこにやっぱりずれがあるんじゃないかなあ。同化したいのって本当は体なのでしょうが、それを振り切る方便としてお互いの不安をそこに重ね合わせてしまい、まるで精進したふうに取り澄した意見を吐きながら自己を慰めようとしている。分かるのよ、そんな気持ちが。過去の件もあるだろうし、お父さんも大変そうだから仕方ないのでしょうけど、あなたまでが覇気のない態度をとることはないと思うの。晃一くんは晃一くんらしく自由でいればそれでいいのに。まえに聞かされた円環とか轍とか、どうしてもとらわれなくてはならないわけ、それも一種の想定かも知れないじゃない。ごめん、言い過ぎたかな」
「かまわないよ、その通りだと思うから」晃一の片目が潤みだしている。しおらしく映ったはずの砂理から思いがけず反論され、崩れゆく自画像こそが堕ちゆく仕掛けであったのをようやく理解した。薄っぺらい感傷などではなく、隠蔽し続けてきた粘着質な意志のゆくえに対して初めて涙した。きらきらと輝く光芒の住処を見つけたと錯覚するのも無理はない、一縷の涙が本物の沈黙をあたえてくれた。