まんだら第四篇〜虚空のスキャット49
砂理の黒目は見事にどこへ焦点を定めればよいのか分からなくなってしまったようだった。貰い受けてきた子犬がはじめて屋内に放されたときの様子に似て。それは葛藤や軋轢からくる重圧とは異なる、もっとたおやかな、花吹雪のなかにさらされているみたいな、ときめきさえ覚える香しい身の危険。強風によって散らされる花びらが全身に降り掛かってくるあくまでもののあわれに籠絡される戸惑い。晃一は砂理のこころが透けて見えるような気がした。レントゲンの透視など無機質な視覚ではなく、蝉や蜻蛉の羽のように生きた透明度で知りうる柔肌のこころを。
「そんなふうにはっきり言われると恥ずかしい。でも君だって恥ずかしいだろ」
ふたりの思惑が同一の場所にとどまっているのだと晃一は考えていない。むしろ至近距離にありながら見落とし勝ちである慣れ親しんだものをもう一度しっかり見つめることで、水底の感触が伝わってくる程合いに互いの断層を計れるのだった。本心から出た言葉であれば額面通りに受けとめもしただろうが、砂理の口吻から大胆な問いかけに自らも狼狽をしめしたがっているほんの些細だけれど、悪戯からは脱皮しかけた思慮がかいま見え、晃一の反応を錯雑にした。
念頭に突き上げると云うよりも、相手の固定されない目線を追いながら香りとったのは自分の肉体から滲みでてくる煙状の、だが、肝要なすがたをかき消すのない淡い煙幕に包まれた軽やかな推量だった。
見果てぬ夢であった砂理との接触をきれいさっぱり拭ってこれなかった情欲が、ついに今湯煙の熱気を立て始めている。
生来から異性には関心ないと自他ともに認めていた感覚がわずかだけだが揺らいだのだ。砂理を見通すより早く、こちらの感情を察知していたからこそ一見大胆にも聞こえてしまう探りを入れ、ここしばらくは音信が途絶えていたとは云え、少なくとも好意を寄せ合ってきたことには違いない関係に変化が訪れるのは予期せぬ事態をどこかで求める証ではないだろうか。郷里の件にしても同性志向の吸血鬼とのふれこみによって吸い寄せられてしまった比重が大きいかも知れないが、同郷に縁があるだけで異性である自分を慕ってああした冒険を試みたのは、決して算段によるものだけとは思えない。この微妙な距離感をなるだけ意識してこなかった所以は何よりも砂理の感情を逆なですることなく、それでも波紋を与えたいと云う抑制ある理念に収斂された。決して恋愛を狭間に据え置かない、ある意味邪心を持ち合わさない友情とも呼び辛い想いは、何気ない口ぶりや態度に如実に表れるところだったが、恐らくはこの距離をとりあえず維持したが為に自ずと中性的な接し方をこころがけていたのだ。男色の気は間違いなく備わっていないけれども、女性同士の交わりに対する憧憬は単に性的な次元を超えて赫奕たる清浄なひかりへと結ばれる。
こんな意想が内包されていたから、砂理の胸に好意以上の信頼がこだましていたのだろう。夏の日の冒険は案じていたより呆気なく終息し、異性としての結びつきがなかったからには、それぞれが想像している通りの現実に埋没していくしかなく、あれから別に信頼が深まったわけでも、馴れ合いに流されてゆくわけでもなかった。どちらかが過ぎ去った想い出にしがみつくか、またそこから奇矯な展望をめぐらせ強引に縛りつけでもしない限りは元通りの間柄に帰ってしまう。
先ほどの砂理の発言は晃一にとってみれば、諦観の彼方にそよぐ涼風であるべきだったけれど、こぼれるはずのなかった独り言を反対に聞かされたことで、こころの底から恥ずかしくなってしまったのだった。そして恥かくしの言い草に無様なくらいふさわしい、あんな反復をしてしまった。ところが砂理はまたしても晃一をかく乱される返事をしたのだ。
「いいえ、恥ずかしいなんて思わないわよ。だって前々から思っていたことだし、今日だって偶然に会ったようで、そうでもないって考えたの。ごめんなさい、こっちから棒で突ついといて、困ったなあはないわね。でも、あれから連絡なかったから少し寂しかったのかな。ねえ、こんな言い方するから善き解釈に発展するわけ」
と、言うやかつてない破顔を見せた。晃一もつられてはにかみが苦虫に、それからまるで喧嘩のあとの仲直りで交わすさわやかな笑みに変わっていくのを知った。するとこれまでの下心が一気に露呈された自虐的な歓びも沸々とわきあがってくる。勝ってに文句が口から飛び出してゆく。「ぼくも健全な男子なんだ。君と間近にいて性欲を持たないほうが不健全と云うもんじゃない。そうだよ、かなわない欲情は紆余屈折しながらどこかに噴出するしかないんだ」
「日に二回も自分でしてるって本当なの。まえにそう言ってたわよね」
「ああ、そんな時期もあったさ。もう昔のことだけど」
「何が昔よ、わたしたちまだまだ若いのよ。そんな老人が語るみたいな言い方はやめてくれない」
砂理の面持ちは笑みを保ったまま、語気を強めるでもなく、ただ意地悪な子供が少々本気になったような純朴な口調で応対する。
「去年の夏だって、まだ終わっていないわ。そうでしょう、それでお父さんはどうしてるの」
晃一はわざと渋い顔をつくりながら、「あれま、本題からそれるわけね。いいだろう。それも今日の課題だから」そう答えると、今度は眉間のしわをひろげて隻眼を光らせのるだった。
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