まんだら第四篇〜虚空のスキャット45


「あの日の君にはもう会えない。あんなに涙を流し続けたからきっと何もかも忘れてしまいたくなるって思った、ぼくのことも、美代さんのことも。少しばかり、いいや、少しじゃない、砂理ちゃんを更に傷つけてしまう恐れを胸にとどめながら、あれからぼくが見聞きしたものを話したい。それでかまわないね」
「ええ、わたしは大丈夫、そう、あんなに泣いたからね」
姿勢はただしたつもりだったけど、まるで重圧に被われる如く、直面する現実に身が縮まる思いがした。果たしてあれが現実だったのかどうか、実のところ晃一には納得のいく折り合いはほとんどとれていなかった。夢想のように描けば手の届かない位相に羽ばたいてしまうのは当然だったが、直視する意気を呼び返せば、避け難い唾棄すべき事柄をもなぞっていかなくてならなく、興味本位で始まったと理由づけられている内実から垣間見える魚影のような暗さに導かれた先には、想像から逸した潮流が妖しくうねっていた。
収縮したのは、この場で砂理と向き合っている情況を別の鏡で映しとられていたからであり、夢想による力の及ばない領域に魂が浮遊してしまったからであった。ひとは時として災厄に際し、あらぬ回避術を駆使する。現実否定と云う、超絶技巧をもって。
晃一の目は閉じられてなかったけど、こころの目を閉ざすわけにはいかなかったから、見開いたまま空虚な像をよぎらしていた。片方は完全に闇の世界を彷徨しているのだから、この身構えは清いすがたであった。

あの黄昏の間で父が美代に近づいていったのを、晃一は連動写真を並べて見るくらいの鮮明さで脳裏に描きだせた。一点しか見つめていないようで、もっと底深い沼をのぞきこんでいた不気味なほど澄みきった眼球、足取りは魔がさして宙に浮いたふうでもあり、爬虫類が獲物へと狙いを定め慎重に鋭敏な神経を発揮している様子でもあった。対峙した美代はそんな父の姿に身じろぎもせず、まさに不動のたたずまいで相手を受け入れようとしているのが見てとれた。これは戦慄すべき光景以外の何ものでもなかったし、その戦慄こそ晃一が意識出来ないまま秘め置いて来た予期される絵図だったのだ。
「最初は映画のインタビュー・ウィズ・ヴァンパイアみたいな雰囲気にひたれればって考えてたんだけど、あの映画でもやっぱり吸血鬼は吸血鬼なんだ。つまり人間の血を吸う。怪奇趣味って単純に見えるだろうが、ただ化け物や幽霊が出てくるだけじゃつまらない。悪鬼に襲われる場面は常に怖いもの見たさの心理が働いている。でもそれだけじゃない、最高に刺激的なのは邪悪なものらの隠された秘密にあるのさ。美代さんの事件を聞きつけてから、胸が高まったのは親子としての必然であったと思う。父の感性の苗は確実にぼくに分けあたえられていたんだ。しかし指向が幾分か違っていた。ぼくは美代さんから吸血されたかった。ところが父の場合は逆に彼女を望んだんだ。結果的には君も見た通りのあやふやな儀式で終わってしまったけど」
「わたし、震えが止まらなかった。それに涙も。確かに怖かったわ、紛れもない恐怖。でも晃一くんが言う刺激ってのも分かる。なんとなくだけど、、、涙が甘い液体になって唇に流れて来た、塩の味がするって思ったけどこころのなかでは甘く感じたの。もっともそれから先は失神してしまったから覚えてない」
「ぼくはあのとき君が倒れかかった瞬間を見ていない。お母さんに抱えられるようにしてソファに寝かされたのもうら覚えさ。何しろ、その直後にもっと信じられないことが起ったからなんだ」
と、鼻息荒く黒皮の眼帯に隠された目で見切ったとさえ威丈高につくろえた。しかし、もう片方はあたかも記録映画を撮影する沈着さでこの世のものならざる光景に向かい合っていた。
顔面蒼白にもかかわらず孝博の生き血を含んだ唇だけが、熱帯に咲く花弁の如く異様な赤さで濡れており、意識が定まっているものやら見分けがつかないうちに美代から数歩退いたと思うと、その場に正座を崩すような足組でしゃがみこんでしまった。美代は孝博を気遣うと云うより、何かまじないを唱えるふうに低い声で短い言葉を吐き、一気に視線を転換させる勢いで塚子の方にからだをひねり、まだしたたり落ちている手をそのままに右腕を肩先より上げ、その人差し指と中指で塚子の顔面あたりを鋭く差し示した。ほとんど虚脱状態に見えた、この如才ない夫人は本来の意思とは別のところで立ちすくんでいるかのようだったが、やがて背後より何ものかに支えられてでもいる不自然な立ち居を保っている格好に異変を覚えるのと同時、美代はあの抑揚のない、しかし洞穴深くまで通じる不敵な祝詞とも云える文句を口にした。迷い猫をなだめすかす声色をもって。
「お兄さん、さっきから来ているんでしょ。みなさんお揃いですから。塚子さんを借りていればいいわ」と、まったく夢想だにもしなかった展開に滑りこんでいき一同唖然とするなか、不敵な笑みがまるで女神のまなざしであろうかと思われる優美で無垢なる、静謐な表情に移ろってゆく。ほこりが舞う音さえ聞えてきそうな、ひかりと異形なる天稟が織りなしているさながら星雲のひろがりをも想像させる、白昼の暗黒、夕暮れの終焉、吸血儀式は始まりそのものであった。太陽のしずくは夜明けの到来を約束することによって、闇の正門にためらいなく手をかける。待ちくたびれた百鬼たちに鎮魂をさずけ、おそらくは二度とはあり得ない復活を果たす為に激しい情念を急速冷凍で現世に届けようと試みる。たとえ念いは伝わらなくとも、凍てついた舌先には生命の証しであった記念碑が言葉なきまま現れる。幽霊が饒舌であったなら、もはやそれは人間である。こうして霊媒を介し、帰ってきた遠藤久道にかける言葉は冷淡であるべきだった。美代は如夜叉の顔容に切り変わるのか。誰もが固唾の飲んだ。