まんだら第四篇〜虚空のスキャット40
「吸血事件で胸を痛めたのはわたしら親子もさることなが、張本人である美代ちゃんとの想い出でした。時間というものは冷淡な流れでもあります。あれから数十年を経た今では記憶こそ鮮明ですけれど、今現在のこころまで支配する能力は失われてしまって、残されたのは甘酸っぱい気恥ずかしさと、罪を知らなかった、いえ、罪の深さを知らなかった邪気に対する怖れだけです。やはり保身が働いているのは紛れもない事実でしょう。最期に声を枯らしながら唱えたのは、わたしが美代ちゃんを吸血鬼なんかにしたんじゃない、原因は兄である久道さんに違いない。何故なら彼の研究はそう云う方面のようでしたから。もう随分と故郷の土を踏んでいないと砂理には話していましたが、実のところ何度か帰省していました。両親は亡くなっておりますし、わたしの妹や弟もこのまちを出ていることもありまして、都合よく言い訳が成り立っていたのでした。ところが気掛かりなのはこのまちで結婚した美代ちゃんの行く末と、久道さんの奇行の噂だったのです。ましてや事件後にはどうにかして美代ちゃんに再会出来ないものか思案をしました。帰省も合わせてそれらが形式上の憂慮であるのは鏡を見るよりよく分かっていました。所詮は少女時代の気まぐれな遊戯、、、そう割り切る以外に救いの道はありません。わたしは美代ちゃんの回復を祈ることだけに収束を見出そうと努めていたのです。それより実際の災禍をわたしは避けたかった。決して偶然ではない不吉な足音が我が家に歩み寄って来たからです。晃一さんの存在と、磯野先生の奇妙な探究心、、、類焼は防がなくてはなりません。彼らと砂理を近づけるのは危険な情況以外の何ものでもありませんから。訊けば磯野先生は久道さんに会われ相当感化されたとの様子、あの方の提唱する超能力やらに傾倒されたからか、美代ちゃんとの関係を丹念に調べあげたいのだろうかと憶測の域は出ませんが、おおむねそんなところではないのでしょうか。あなたは晃一さんを伴う際にあからさまとは申しませんけど、ある程度の意気込みは話しておりますね。わたしは晃一さんと砂理が親しくしている姿を複雑な気持ちで眺めていました。郷里が同じであり同年代でもある。どんな理由づけをして砂理を言い含めれば、、、つまりはふたりの仲を断ち切ってしまおうか考えあぐねました。ところが逆にそんな思案を巡らしているのが、知れてしまったらそれこそ薮蛇になってしまいます。災厄から逃れたいと願う一心は却って仇になると云う図式がすでにひかれているのです。一方でわたしの眠りを揺り動かすような奇異な胸騒ぎが始まっているのを、もう否定するのは困難になってきました。そうです、ひたすら祈りを捧げているばかりの自分を脅かす如くに逼迫してくる現実、いつかはこの口から砂理に話さなくてはならない現実、ところが強風であおられるこころの一角にはいみじくも毒消し作用のあるあだ花が芽を出しているではありませんか。美代ちゃんとの邂逅を夢見させていた本当の気持ち、それが次第に曖昧なものからもっと感情的なものに昇華し、終いにはもうすぐ会えるのではと不確実な領域を越えて願望の錨を下ろす覚悟まで至ったのです。封印していたのは、世間体のような常識をまとった小市民の感情でした。そして昇華されるべき感情こそ、忘れかけていたあだ花を育む想念なのです。こうなれば、晃一さんはもうわたしにとってはかけがえのない有力な味方でした。砂理との不幸な交際をあえて望んでいる姿勢にも共感出来ます。わたしはなるだけ砂理に彼を通して情報を得るよう求めました。訝しい目つきをしている砂理を懐柔するのは他愛もなく、どうしてかと申しますと、わたしの秘密を嗅ぎ分けている内情を危ぶんでいるのは娘本人だからなのです。胸襟など開かれない美徳によってむしろ互いはよりよく結ばれ、腹芸とも云える好奇なかけひきで秘密のベールがより優れた形ではがされてゆくのです。娘にとって母の少女期はめくるめく官能をひそめており、母にとっては娘の性障害から生み出される逸楽に加担する意義を得るのでした。注意深く耳を澄まして磯野先生の動向を探りながら、慎重な言葉使いで砂理と晃一さんとの信頼度を確かめてみる。それと能天気な装いを過分に示しつつ、封印を解放させたいと無意識的に望んでいる態度をちょうど手話で伝えるようあくまで記号的に表すこと。こうした作業が功を為すのは時間の問題でした。まず晃一さんとは恋愛関係で繋がっているのではなく、察したように有能な同志の感覚で手を取り合っている。わたしが帰省を行なわない事情を感づかれまいとしているけど、内心では現在の美代ちゃんに関心ある、そう思わせることで彼らの計略はまんまと露呈されてしまったのです。わたしは理由の説明をあえて濁したうえで、晃一さんらとの帰省を叱責し、弱みを握った証しとして本音を吐き出させる権限を勝ち取ることが出来ました。とは申しましても、例の写真から始まった疑惑のすべてを口にするほど娘は馬鹿正直ではありません。小さい頃より妙に意固地なところがあって、素直じゃないわけではないのですけど、こうと決意したら頑なに貫く性格だったのです。おそらくは晃一さんとの約束もあるのでしょう、郷里にこれこれの女吸血鬼騒ぎがあったみたいだから興味がある、いい具合に彼が帰省すると云うのでこの際だから是非とも一緒に行きたい、、、ざっとまあそうした経緯であとはわたしが承諾するかどうかだけだったわけですが、砂理に含んでおきましたように、磯野先生らには一日遅れてから出発予定であると伝えておくこと、家族には内緒にしていると云うこと、これらはわたしも同伴する事実が覚られない為に必要な策でした。以外と思われるでしょうけど、砂理はわたしと一緒ならばとの条件をすんなりとのんだのですよ。お分かりでしょう、母と娘はひとつのまばゆい光景を見つめていたのです。わたしは別に意味深な登場の仕方をしたかったのではありません。美代ちゃんと確実に会えるまでよくよく算段してみただけのことです。あなた達の訪問によりどんな反応が垣間見えるのか、そんな思惑もありました。あだ花らしさとは結構実際的なものですわ。さて一番肝心な弁明を。砂理からは美代ちゃんがいつまで滞在しているのか訊き出してもらって、あらためて訪問する気でした。あんなにも泣き叫びながら電話で話すまでは、、、」
|