まんだら第四篇〜虚空のスキャット41
「それで山下さんは今こうして美代さんに会われたわけですか」孝博の声色には幾らかの驚きが加わっている。
「そのようですね。わたしは砂理に上手く先方にたどり着けたらメールで連絡するよう言っておきました。まさかいきなり直行されるとは考えてもおりませんでしたので、砂理の気持ちをなだめる必要に駆られその部屋から出て電話するよう返信したのです」
「とても慌てていたようだった」と、孝博は注意深く観察しなくてはならなかった責務に胸を突かれた。
「おふたりに出迎えられ車へと乗り込んだのを駅の隅から息をひそめながら見送ったわたしは、予約しておいたビジネスホテルに向かいました。客室に案内されてくつろぐ間もなく、砂理からこころの準備がない自分が恐ろしく不安になって仕方ない、遊び半分などではなかった、本当にこのまちに来てみたかった。でも、いくらなんでも直ぐさま対面になるとは思ってもみなかった。からだが震えてくる、、、砂理が涙まじりだったのは顔を見なくても分かりました」
「その先はわたしがお話しします」舞台劇の要領で青ざめた顔色を強調させながら砂理があとを継ぐ。
「一刻も早く母の声を耳にしたいわたしは部屋から逃げ去る勢いで外に出ようとしたんです。ここまで来る途中に見つけた児童公園がすぐ近くにあるのを思い、そこまで駆け足で行こう、そこで落ち着きを取り戻す為に電話をしようとしました。ところが玄関先で何気なく右横を向いたら角部屋があり、その窓越しから女のひとがこっちを見ているすがたが、不気味な鮮明さで迫っています。迷うことなく、このひとが美代さんだと思いました。すぐさまその場から逃れかったはずなのに、わたしの目はこころを離れ異形の女人に吸いこまれてしまい、足は虚脱したみたいになって一歩たりとも動きません。午後の日差しが中庭を照らすのどかな光景に縛られている、、、窓の奥からはこの世で最上の笑みを持った顔がわたしを離すまいとしている、、、知っているんだわ、わたしが山下有理の娘であるのを。理性も判断力も意欲さえも無くしかけた脳裏に、血を吸われるんだ、と云う意識だけが渦巻きました。そして何だか朦朧として時間の経過を忘れてしまったようで、気が着いたときには児童公園に佇み、母の言葉をひとつひとつ確認しながら、自分の言葉も同じように反復していたんです。無理よ、覚られてしまったの。わたし必ず吸血鬼のえじきになるわ。しっかりしなさい、そんなことはないから。大丈夫これからそっちに行くから、計画は変更よ。わたしの秘密もあなたの秘密もさらされるけど、美代ちゃんはあなたに危害をあたえたりしない。児童公園ね、そこに居なさい。そのままで、、、」
「ぼくが近づいても砂理ちゃんは何だか目が泳いでいるみたいで何度も両肩をゆすったんだ」晃一は高まる気分を制御しているつもりなのか、大きく深呼吸をしてみせる。それから続けて話す。
「母も来てるの。今ここに向かってる、、、ぼくは事情がよくのみ込めず、あれやこれや質問した結果、さっき砂理ちゃんのお母さんが語った真相に及んだ」
有理は寂し気な目で晃一に「タクシーの中からあなた達を眺めてました。双方の表情からどんな会話が為されているのか想像はついてた。少し車を移動してもらってため息ばかりついていたわ」と言った。
そして部屋全体に行き渡ることを込めた口ぶりで「わたしがこんな情況に飛びこまなくてはならなかった理由はこれがすべてです。見るべきものはもうありません」
役回りの演技をこなした女優が安堵に混ぜて放つような困憊がそこにあった。
孝博は言い様のない圧迫感に苦しんでいた。強烈な力ではない、むしろ得体の知れない悪臭に巻かれている不快な心持ち。晃一と砂理は恋人同士とは別の関係で、砂理と有理は親子の縁とは異なる従属系統に属し、晃一と俺もやはり親子でありながらいくつかの立ち位置をもっている。しかもよくよく考えてみれば、俺だけが蚊帳の外に居たのではないだろうか。遠藤を介し夢うつつの道ゆきを経て、ようやく期日に至り、晃一をも先導して来たつもりだった。ところが蓋を開けてみるとこの有り様だ。美代は砂理を見つけるなり、いや、塚子を通して息子と知人の女性と伝達しておいた時点でもう砂理が現れ、有理との再会を果たすと予感していた。そもそも遠藤はこう言ったのだ「あなたは近いうちに美代と会う」と。
何もかもが轍のうえにあったのか。神々や如来が切り開いた道程などでなく、ごく身近な連中によって定められた、その実さほどでもないありふれた秘密に支えられた僅少な神秘。はなから神秘主義を信奉してきたつもりはないが、ここまで来て自分が健全で明朗な現実家とも断言し難い。
「見るべきものはもうありません」か。家族の平和を維持する為に隠蔽し続けた秘画が白日を浴びたからには、確かに本人の言葉通り見るものはない、、、こんな同窓会みたいな結末で終わってしまってかまわないのか。救いもないかわりに、謎も毒もときめきもない。砂理がおののいたような事態が展開されたら、さぞかし痛快だったかも知れない。用意周到な集いがそれも気泡に帰した。
晃一、おまえは俺の秘密も知っているんだろう。何枚上手なんだい、素晴らしい敗北感と言いたいところだけど、ひとつ忘れかけていたよ。孝博の目に妖しいひかりがきらめいた。ろうそくを消すんだ。そして妄念を解放する。
|