まんだら第四篇〜虚空のスキャット39


端々に刷毛が無造作にかけられたまま、ぼんやりと空高く浮かぶ雲を想起させる。山稜からなら手が届きそうな気がしてしまうがかなり上空である。どれくらいの風が吹いているのだろう。見上げれば、ふんわりとした形状は次第に海生動物の様相へ近づき、地上から無垢なる心情を吸い上げている。
天と地と海の雄大さは、抵抗し難い勢いをもってこの一室に凝縮してしまったようだ。白雲ながら中心部は煤けた憂慮の如くにくすんでいるではないか。予期されていたのかも知れない砂理の母親の出現、それは雛形を作り得ない風姿、まるで空から降りてきた雲の影であった。浮き雲の安寧とはかなり趣きが隔てられた緊迫した空気に運ばれている。
やせ形で乾いた匂いをした容貌には慣れ親しみにくい印象があるのだが、その目に込められた憤怒とも愁訴とも判じられない因果をくみすれば、あながち正鵠は射ておらず雰囲気全体がつかみとれていない。しかし、突然の来意を弁明することが先決であると云う、意気込みは余すところなく伝わってくる。砂理とはつくりが反対で大きく見開かれた双眸が、残暑のように過酷なそれでいて儚いうつろいを代弁し、唯一そっくりな長いまつげがせわしさを潤沢に補い、饒舌であることが予想される呼吸を意識しているような口もとは期待を裏切らなかった。
「お聞きの通りです。砂理の事情もわたしの意思もあらかたのみ込んで戴けたのではないでしょうか。いきなり押し掛けてしまう形になってしまいましたけれど、どうしても娘だけここへ寄越すのは出来ませんでした。こちらを訪ねております方々、ええ、とくに磯野先生はこれで得心いかれたのでは」
「わたしをご存知したか」挨拶もなきまま直球を投げつけられる。
「砂理からお聞きしましたし、晃一さんからもお話は少々うかがっております」毅然とした口調に今のところ雲の陰りは感じられない。自分は招かれざる客であると、前書きで記した開き直りにも似た口上が用意されている。
「これは、皆様大変失礼しました。砂理の母の山下と申します」誰に目をあわせるわけでもなく、吐息みたいに生気なく口にした。有理自身へと呼びかける、力まぬ証明であるかのように。
「有理姉さん」
「美代ちゃん」
こわばったそれぞれの表情が、刺々しさに張りつめた空気が、二羽の小鳥のさえずりで得難い陥穽におちいる。突如現れた防空壕への安堵となって。
赤錆がこぼれ落ちていくような柔和な微笑を有理の顔に見つけた。まわりの者らも童話に聞き入る子供となって、こころに泉が湧くのを覚える。
何よりも先に視線を送るべきひとであった美代の呼びかけは、有理から邪念を追い払う効果を発揮した。見る見るうちに有理の両肩からはあらぬ勢いが抑えられ、踏みしめている足もとに張った懐疑が希釈され、釈明に専念されだけの武器にも近かった口もとがしめやかに閉ざされた。残暑に佇んでいたまなざしへ灯された明かりはろうそくによるものだけではなかった。
孝博は童話から紙芝居に目移りする小さな興奮で、何かが急降下してゆくのを認めた。明らかに動揺をあらわにしている有理とは対照的に美代はほとんど顔色を変えていない。有理の方にからだを向けているものの、その全身には日陰にとどまり花咲かす可憐な息づかいしか聞えてこなかった。いや、動じなかったのではない、砂理を一目にしたときからすぐ先に惹起されるであろう情景が見てとれたのだ。一番最初に悲愁で胸を焦がしたのは間違いなく美代である。
だからこそ、墓標に陽光が降り注ぐのは粛然たる恥じらいとなり、また、前ぶれがあったと云え棺の蓋が開けられるのはこころ許なかったのだろう。
そんな美代を深く理解していたから、このまま牧歌的な感傷にひたっていることは寸暇の戯れであるのを了承する為にも、有理は本来の役割に速やかに立ち戻らなくてはならなかった。いつまでも郷愁の淵に身を沈めているわけにはいかない。
まるで置いてきぼりを喰った人々を嘲笑する悪鬼たるべく室内の空調を強引に変えてしまう。にわか拵えされた微笑を仏壇の奥深くにしまい込むふうにして、孝博のお株を遠藤と同じく奪う様相で講義を再会させた。
「わたしには磯野先生の気概を計ることが難しいです。砂理があの写真を以前から盗み見していたのは知ってましたし、年頃になるより性向に問題があるのも薄々感じておりました。それがわたしの罪業であると思い込まなくてはならない強迫観念に苛まれていたのは信じてもらえますでしょうか。のちに印可をあたえられたのではないかしら、そう念じてしまった吸血事件を耳にしたときには卒倒しかけました。そして今まで封印し続けて来た秘密もすべてあからさまになってしまうのだと嘆きました。わたしだけの保身ではありません、砂理にとってもそれは親の宿業の顕現だと痛感させてしまい、結果はどう転んでみても最悪を指向してしまうでしょう。それでもわたしが躍起なったところで、古傷を隠し通すより他に賢明な手段はありませんでした。お分かりですか、わたしたちの間には神秘的な要素も、興趣をそそる物語も含まれていないのです。見るべきものはありません。どう思われますか、磯野先生、、、」