まんだら第四篇〜虚空のスキャット37
かつて兄から好奇の目で眺められ、性的な意識さえ抱かした妹、美代。遠藤の告白めいた追想は果たして脚色が施されているのか。大体は嘘ではないだろう。血の繋がった兄妹にもかかわらず己の欲情のおもむくままに禁令を越えかけた。この事実だけでも過分な情報提供と云えよう。それほどまで遠藤を煩悶させた生き仏が今ここにいる。もっとも聖なる佇まいかどうかは判断しがたい。如夜叉であったこともやはり事実だからだ。吸血鬼、、、女の子だけを狙ったと云うそれほど血なまぐさいはないが異常な挙動。
だからこそ、臀部あたりから背筋にかけて樹氷で出来た電線を何かが駆け抜けてゆく。激しい伝播は一瞬にして恍惚とともにその通路も霧散させていまう。熱気だけがほとばしっていると感じるすべてが虚妄であったかのように、一縷の念いは叶えられない。雪合戦の想い出を持ち合わせていないひとのように。
ならばせめて雪解け水を、その熱い喉もとに注いでみよう。決して虚実だけを見極めに来たわけではない証として、、、
孝博にとって条理はあまり重要な問題でなかった。肝心なのは今ここにひき起される欲望の現れを見つめることだけだった。それ故に美代をしっかりこの眼球に焼きつけておかなくてはならない。
多少のひかりが目もとに棲家を探り当てたのか、それともろうそくから放たれる赤く黄色い炎が棲家を焼き払っているのか、いずれにしても美代の瞳は思ったより日輪を嫌悪しないだろうし、雨空に近親憎悪をもよおしたりすることのない適度な潤いも持ち合わせていた。
気になるのは小首を傾げる癖のあとに、どことなく悲哀を半ばあらわにした笑みが、本人が意識する以上に愁いと隣合わせになっていることだった。抑揚のない口吻でひとこと話し終えた途端に、その情感の複合物が肖像画となって画布に描かれる。そしてその肖像画はあたりまえだが一枚一枚彩色が異なっていた。差異に生き甲斐を感じているのは学者だけではない。女吸血鬼と云えども生きている限り日々の移り変わり、例えば天候であったり、体調であったり、他者との距離感であったり、その日その日の相違は生命の根幹でもあるから。
美代の目の奥に何が潜んでいるのかは分からないが、こうして彼女を見つめているとそこに映しだされているのは紛れもない自分であることを孝博は、財宝を掘り当てた困惑によく似た慢心で迎え入れた。緊張の糸はほぐれたのか、己の口角が気を取り直したようにあがり気味になるのが感じられると、一時は恐れすら為していた美代の目つきに幾分か慣れ始めていた。ちょうど隣の家に越して来たばかりの子供と目配せを交すように。
尋常ではない白い肌もよくよく目を凝らせば、それなりの年齢にふさわしく素顔のままではなくて、しっかり化粧の形跡が見てとれる。きめ細かい肌質だからなのか、上質の木綿にアイロンをあてたときみたいに見事な張りと艶やかさが美白をより一層際立たせていた。生憎この薄明かりでは白さは浮きあがっても、しわやらしみなど目立つことなく意気消沈として表だつ必要もない。辛うじてその面に影差すのは、炎のなせる業であり、特に斜め横から見届けた鼻筋からあご先に至る肖像は、逆に生々しい表情を生みだしており、わりと長目の睫毛がそっと降ろされるときなど一種神々しい印象さえ備えていた。
実家における兄との関係や想い出が一通り語りつくされたのか、小首を傾げながらもこの部屋にひとつしかないドアの方に何回か視線を送るのが見てとれる。
「かなり幼い頃だと思います。大掃除の際に障子紙を張り替える光景です。裏庭に出されたそれらを破りとっていたら、兄が何やら奇妙な手法をわたしに伝えたのです。はっきりとは覚えていませんけど、指先に魔法がかかったとでも云うのでしょうか、面白いほど素早く古い障子がはがされていくのでした」
視座を定めることに成功したような美代の目は、ドアの向こうへ張りついたまま、その先は誰に話しかけるわけでもないと云った風情の声色になった。小石が崖を無邪気に転がり落ちる如く。
「いつの間にか戻ってきた兄を背後に認めると同時に、歪んだ表情をしたまま、そう、驚きが抑えつけられて羨望へと移行しかける決して美しくはない表情です。それが嫉妬の萌芽であったのを知るまでに時間はかかりませんでした」
美代のまなざしはお伽噺をしているときのけれんみを際どく排除しながら、安らぎにも似た憐憫をたたえている。
「それからのことです。兄がわたしに色々と風変わりな所作を要求してきたのは、、、」
過ぎ去りし幻影を追いかけるまでもなく、睫毛の先に追憶の哀しみが風化しつつあった。そして消えかかる想いは風船のように軽やかに宙に浮かんでいる。
その直後、孝博は不可思議な光景をむかえ入れることになった。夕暮れが深まるなか、遠くの明かりがとても身近に感じられてしまうのと同じく、、、
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