まんだら第四篇〜虚空のスキャット36
日暮れ時に覚えるやるせなさが何処からやって来るのか、ぼんやりとした意識からわき上がる霧の彼方に目配せをしながら、胸のまわりを繻子で撫でつけられるような感触は歳月に関係なくこの身に訪れる。
今もまた、同じ想いのなかにゆっくりと横たわろうとしている。眠り入る前のおぼろげな感覚がいつもかたちを為さないように。
たぶん外では季節の前ぶれを告げるふうに一枚の枯れ葉が舞っている。乾いた秋風がよぎる様子は室内からも多分に窺える。すすきの穂は微風になびくだけで音もなく、ためらいもなく、夕暮れに牽引されることを拒んだりしない。夜が空から降りて来ても、今日一日の日差しは踏みしめた大地の上に森閑として眠っているから。明日と云う約束に忠実である為にも、深い闇を受け入れなくてはならないし、その束の間である黄昏をいつくしむのは希望の灯火であろう。
美代がこの場でおもむろに一本のろうそくを取り出して見せても誰も不思議な顔をしなかった。昼下がりは緞帳を降ろされ、時計の針は責務から解放され、自在な時刻を選びとる。
ちょうど美代の面くらいの長さをした筒型のろうそくに炎が灯されると、まわりの光景はより一層と逢う魔がときへ近づいていった。先端を天井の真上に定めたようにまっすぐ立ちのぼった火は先細りつつも、ちから強い勢いを内包しているのだろう、実際ろうそく全体の輝きは炎によるものでなく、自らの情念で発熱しているとさえ思えるほど火照っている。その灯火に照らされた美代も、淡くなったり濃くなったりする陰影にせかされて、透き通った肌の血管を浮きだたせていた。そして晃一も砂理も、おそらく孝博もまるで夕映えを浴びたときの、あの信頼感が呼び寄せられる明るみのなかを思い出しているのだった。
暗闇で灯される雰囲気とは異なって、ろうそくの火は部屋の隅々にまで何かねぎらいをかけているのではなどと、他愛もない感想を持ってしまう。美代の手元から離れ机に置かれた位置だけに灯っていると云う、不測の事態みたいな印象をあたえているわけでなく、ここに在るすべてが、集った者たちの佇まいも、前回と変わらぬ家具調度類も、それから本来は結びつくことないそれぞれの想いも、真空であったり、不穏な気配を含んだ空気もが均一な照度を受けている。
孝博は当然ながら美代の一挙一動を見守るしかなかったので、これからどう云った情況へと運ばれて行くのかは皆目見当がつかなかった。だが、暗幕やろうそくのもたらす効果がただ単に、特殊な環境を生み出しているだけでなく、或いは芝居がかった舞台に上るために招かれる催眠的な方法だとも思わない。なすがままの有り様を甘受するのがある意味真意である限りは、そこに即すのが賢明なのだけれど、一切ゆだねるふうに情趣がたなびくまま思念を閉じ去るのは不如意であった。もてなされた重箱の隅を突いてみたい性根は捨てきれないのだ。遠藤の妹であり、異形の女人である美代のすべてを知りたい探究心は、欲深い釣り人に似ていた。
「また大振りな魚を釣りあげる夢を見た、、、」
孝博は年に数回はそんな夢見で嘆息した。深層心理的に水面を透ける魚が意味するところはおおむね了解していたし、何より夢中における胸の高まりと、言い様のないうしろめたさ、もっと明確には「こんな大きな魚を釣ってしまっていいのだろうか」と云う、子供が身分不相応のものを手にした際のおののき、棲息するべき場所に居る魚に対する畏怖は、その色かたちと大きさも相まって、未だ生類憐れみの情へと短絡に避難しようと務めるのだったが、実のところ隠された卑猥であると推測していた。
束の間の考えにすぎなかったけど、やはりこの薄明かりが育んだ思考に違いない。いや、そうではなくこの黄昏どきを愛するからこそ、場面が大仰に映るのかも知れない。どちらにせよ孝博が希求してやまない精髄は証明された。「美代の首すじを噛む、、、」あの妄念は闇に埋没することなく薄明の刻を待っている。過剰に呻吟して見せるほどの思想ではない。それは重力に抵抗しているのか、陽光に舞う綿ぼこりに交じって宙に浮く、不沈の微粒子と化して、、、白日をものともせず、ここまでたどり着いた夜叉の魂に魅せられ、、、
孝博の沈着さは、かつて書かれた悪魔の辞典から引用されるべき軽やかな体質をはらんでいた。情感に溺れる自己をどう料理するかはほとんど問題なかった。しかしながら夢の魚を釣るのが怖かった。ただ釣り上げてさえしまえば、骨まで出汁にして飲み干しただろう。
どうやら克己心にも鞭は打たれたようだ。たった一本のろうそくに灯された火は美代を正視する機会を授けてくれた。
揺らめいているのが罪なほど、時折炎は意思を伝える。美代が始まりの合図を示した以上、急がなくては。孝博の胸中は戦闘体勢に臨むまえの飛行機乗りに似ていた。ただただ広がる青い空と白い雲、見渡せる大陸、神秘的な海原。見届けよう、、、もっとも自然なすがたを。「浅井美代さん、あなたのことを、、、」
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