まんだら第四篇〜虚空のスキャット35


さすが兄妹だけのことはある。美代は生前から兄を敬遠していたようだが、思考の方法はよく似ているし、聞き手を引き込む話しぶりは生写しと云ってもよい。美代自身、時間系列など意識的に排除しているふうに、吸血鬼にまつわる内情をつぶさに語り始めたかと思えば、肝心かなめな動機には言及せず、兄久道が執心していた超常現象に関する話題に転じ、心霊と超能力は並列で論じてはならいと力説し始め、やはり降り行くところは兄への怨念にも似た情念に終始するのだった。
あきらかに美代は我々に、そう云った恨みつらみなるものを吐き出したいが為、進んで今日の面会に応じたとさえ思える会話の濁流を排出している。孝博は気掛かりである砂理の悲哀を何とかしたかったのだが、所詮は美代にまみえることに主眼を置いている以上、主役を脇にして来訪者の裏面をさらすわけにはいかなかった。
濁流なのだろうけども、どうしても耳を澄ませば清流に運ばれゆく一葉が次から次へと、しとどに濡れてながら川面に浮かび、沈みゆく。孝博にはその一葉が決して同じものでないのを心得てはいたのだったが、連綿と続く呪文のようにいつまでもその音を聞いていたいのであった。
むろん話しの合間合間にそっとうかがうようにしか視線を定着出来ない己の不甲斐なさは、ゆるゆるとねじを締める金属音と化して幾度かこころに鋭利なこだまを響かせた。しかし、美代との接見が限られたものである現実が、うらはらに夢想とも云えるこの光景を至上の栄光へと導く。
孝博に可能な方策は谷間のゆりを眺めるごとくに、美代を眼球に映し出し、周到に準備されているかもわからない砂理に関する事情を、明瞭なかたちでここに集った者らから聞き及ぶことであった。ずぶりと刃物を突き刺すみたいに率直な意見はためらわれた。その真意は性急すぎ、あまりに幼稚であるのだと云う建て前によって二重に保護されていたからである。

年齢不詳と思いなす意識こそが曖昧な具象を縁どっていた。コンクリートに近い単色な灰色加減のワンピースはあまりに地味であったから、対比させる意匠も逸してしまい、白亜で塗られた落書きが罪であるみたいな通念に埋没していた。けれどもよく目を凝らせば決して日だまりのなかに三分と佇めない、それくらい病的な美に漂白された肌であった。
「これまで何人かの血を口にはしましたけど、わたしの血を吸ったのはひとりだけです。どうやってかって、すこし恥ずかしいから、あの日が始まったときと答えておきましょう」
生来なのか、それとも疾患に起因しているのか、やはり声に張りはない。それでも余ってあるふくよかなもの言いが、抑揚ない一定の規律で貫かれていると感じるのは新鮮な音域を耳にしているからか。小首を傾げるのが癖に見える。まるで章句に捧げられる仕草のように、可憐な花びらと蜜蜂がささやきあい、その密やかな寄り添いに花弁と茎がわずかだけたわむ、風の悪戯にしては微少すぎる連鎖が悩まし気に、乳房へかかる黒髪を艶やかにそよがせている。
「想像におまかせしますと申したいですけど、正直にお話します。膝上まで伝ってきたあの血を指ですくいなめるまねをしました。それが始まりでした。学校でからだの仕組みを説明された直後くらいだったので、案外驚きはありませんでしたが、その血を指先でなぞられたときには真新しい体感が走り抜けていったのをはっきり覚えています。だって磯野さん、すでにご存知でしょう。わたしが早熟な子供であったのを、、、」
薄い唇には少女時代から変わらず聡明な生物が棲みついている。しかもその生物は老獪なすべなど一切身につけない、それでいて季節のうつろいには敏感で綺麗な花を咲かせる。青虫が蝶に変身すると花畑がいっそう華やぐように。
「兄は言ってましたか、わたしにキスをしようとして抱きしめたとか。それは本当にありました。ところが、おそらくわたしのほうがすでに経験済みだったのでしょう。歳がいくつ違うかも聞いていますよね。びっくりしたあの顔ったら、意気消沈とはああした顔つきをさしているのでは、、、それからは性的な関心でわたしに触れるのがためらわれたのだと思います」
連想として「血を吸う眼」と云う映画があったなと、少々寄り道をしかけたのも放縦な思念ではあるまい。別に眼玉が吸血をおこなうわけではなかったが、役に徹した岸田森の迫真の演技は素晴らしかった。美代には全体的に強烈な存在感は付与されていないけど、生気が失われた植物的な危うさ、鋭い刺を隠し持っている、岸田森が扮したあの吸血鬼の面影を漂わせていた。映画と同じく美代のまなざしを直視するには厳かな探究心と克己心が要求される。
「カーテンをします。心配ないわ。真っ暗にはならない、そんなふうにこの部屋は作られているのです」
どこかに装置が備えられているのだろうか、勝手に暗幕が下ろされるのだったが、確かに室内は夕暮れの始まりを告げる程度の照度で保たれていた。