まんだら第四篇〜虚空のスキャット28
渓流の音を耳にながら頬張る弁当は悪くなかった。公園まではあと少しのところだったが晃一の希望は正しかった。が、いざ弁当のふたを開けてみると著しい相違が両目に飛び込んできた。「ごはんが白米だ、、、」晃一の注文は鉄の意志のごとく「のり唐弁当」で透徹され、一切のゆるぎは認められなかった。孝博は少々迷った。はなからこれにしようとは決めてはいなかったので、以外と数多いメニューのなかから選びきるのは面倒と云うよりも楽しい行為なのだけれど、晃一の頼んだ弁当の規格と他のものとは容器も大体同じであれば、白米の中心に梅干し、そのまわりを衛生のようにして小粒のごま塩が振られていると云った呈も似たりよったりで、メインが海老フライでもロースカツでもショウガ焼きでも、どこか説得力が欠けているような気がして、しかしながらどんぶりものには食指が動かず、直火チャーハンなどに至っては亡き遠藤の面影があまりに濃厚に直撃してくるなど、わずらっていたのだったが入り口の横に貼られたポスターの「秋の行楽?幕の内」を見つけるに及んで生唾とともに先鋭なる解答が弾き出たのであった。
他の品とは写真の大きさも異なる為か、あきらかに豊富な総菜が焼き海老を中心に据えらていて、れんこん、しゅうまい、焼き魚、こんにゃく、さつまいも、かまぼこなどの暖色系を強調した盛りつけには思わず引き込まれてしまい、何より総菜の量からすると瞭然とした控えめさで敷きつめられいる炊き込みごはんの、これまた温かみで湯気をたてている案配には間違いなくこころ奪われてしまった。こうなれば梅干しごま塩系からは完全に脱却した世界が展開されて、有無を言わさない気迫に圧倒されるばかりだ。
滑滝は非常に加減よく浅瀬へと流れ落ちていたし、腰かけた清涼感のある川石には太陽の熱がほんの少しだけ閉じ込められているような感触がした。晃一は「買ってから二十分も経ってなけど、まだまだ温かいね」などと言いながらうまそうに唐あげのかたまりにかじりついている。孝博の落胆は以外に底が深いようであった。「弁当屋が炊き込みごはんと白米を入れ違えたのか」さすがにこれからその誤りをただしに行こうとまでは考えなかったけど、運が悪いにしても何にしても、この場に於ける失望は根深く淀み続けてしまう。目の前の淵だって常に清冽な流れに支配される喜びを知っているかも知れない。紅葉と血が虚構に連なるものだとしても、いや、そう願ってみたいからこそあらゆる拘泥はむしろ意のままに遊泳してくれなくてならない。例え滝に打たれなくとも見た目だけでもいい、そんな雰囲気が醸しだされていてくれれば本望だ、、、ところが、この梅干しとごま塩は一体何を言わんとしているのだろう、、、
「そんな怖い顔してどうしたのさ、弁当食べないの」
よほど深刻な顔つきをしていたのか、孝博はさすがに恥じらった。そして、内奥に堕ちて行く懊悩とは別の表情で「確かこの弁当、秋の行楽とかって書いてあったよな、それなのに普通の白米なんだよ」と飄然と言い放ってみた。
どれどれと云う目つきで晃一はそれを見つめた。
「あっ、本当。でもポスターには二種類あったと思うよ」重々しさを悟られまいとする父の胸中を察知したふうにそう答える。そして「炊き込みごはんのほうを注文しなかったからじゃないの」そうあくまで快活な口調で失態をちょうどこの渓流のごとく清らかに見送ろうと努めている。
それを聞いた孝博は今すぐにでもこの浅い滝壺に飛び込みたい衝動に駆られた。だが、すぐさま思い直し、冷ややかに己を侮蔑した。そして喜劇へと転化出来るか問うてみた。答えは案外早く胸を破るまでもなく、景品の風船を一気に膨らませる調子で虚空を意味あるものに変えた、それが答えだった。
「そうかい、二種類な。よく見なかったのが悪いのさ、大したことじゃない」
「お茶も冷たいやつより温かいのにすればよかった」今度は晃一が連鎖反応みたいにぼやいた。「父さんはいつもご飯のあとしかお茶飲まないよね、まえから気になってたけど大したことじゃないな」
「いいや、締めにすする熱いほうじ茶は夏場でもうまいもんだよ。ガブガブ飲むもんじゃない。でも今日は別にいいさ」
「あっそう、いやあ、ぼくはね、この川の流れみてたら何だか、その熱いほうじ茶を思い出したんだ」
透けるがごとく美しい清流は茶で濁されたのだろうか。孝博はそうではないと思っていた。「弁当に茶は付きものだ。腹が減れば、昼になればみな飯を食う。連続体みたいなものなのか。醜いものが嫌いなら綺麗なものを好む、綺麗なものが嫌いなら醜いものを好む、これはどうかな」声にならないつぶやきは乾いた秋風のなかに消えた。
迎えの時刻が近くなってきたのでふたりは憩いの淵を後にした。車中、晃一がついにしびれを切らしたふうにこう訊いてきた。「やっぱり、これって一種の吸血鬼退治なわけ」
孝博は一笑に付しながら「そんな馬鹿な、誰を退治するっていうんだ。そんなこと言ってるとこっちが退治されるかも知れないよ、だからおまえの彼女な、ちょっと心配になってきてるんだ。そうした意味あいから今みたいな言い方したんじゃないのか」
「別にそうではないんだけど」返答にややこわばりつつそう言った。
「そうか、しかし嫌な予感がする。これは吸血鬼うんぬんの怖れとは違う何かだ。おれも思慮が足りなかった。砂理ちゃんを呼んだのはよくない、でももう遅いよな。釆は投げられた、あとは終結を見届けるまでさ、、、」
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