まんだら第四篇〜虚空のスキャット29


山間から町中へと引き返すときも、まるでサンダル履きで駆けゆくような素早さであった。ひとつしかない改札口は駅舎から多少離れたところからも見通せた。
朝からの快晴は午後を過ぎても変わらず、青く澄みわたった空にはとんびが数羽自在に飛びまわっている。車が目的地に近づくにつれ駅舎の後方にひかえていた山並みが屋根の下に潜りこむように視界から消え、駅名の記された真上にこしらえられている山稜を模した屋根が青空をほんの一部だけ隠した。むろん左右を望めば名も知らない山が連ねているけど、あと数分でホームに滑りこむだろう列車を待ち受けるまなざしは真正面だけに位置づけられていた。旅人に対する視線はおおむねこうした熱烈な姿勢で成り立っているか、もしくは内省的な雰囲気が一目で見てとれるうつむき加減で示されるものだ。それがどう云った思惑であるのかは他者の関与するべきことではない。
同じように他者からすれば、かつて列車内で過剰な肉欲を抱いてしまった不始末、やがて因果となってめぐり晃一を巻き込む悲劇に逢着した事実、それらは秘匿された不動の陰であり続けるだろう。
孝博は待たれる側をこのまちで幾度も経験したから、見知らぬひとのそうした姿を横目で見遣るすべを少なからず身につけていた。だが今度は始めて待つ側に転化することで、変に落ち着き払った気分を得た。おそらく、たった今までこの駅の向こう遠く渓流で弁当を食べていた余韻だろうし、息子と肩を並べて他人を迎える行為にも奇妙な違和が生じているからかと、つまりは擬似的にしろ山道を経てまちの入り口に佇んでいる現実が、随分と前よりここに住み着き久しぶりの客を出迎えるような錯覚を起こしているのだ。
この錯覚は安全弁がしっかり締められた機能的なめまいであった。それゆえにすべての空気が一瞬にして変わってしまおうと決して身じろがない偽装の錯誤であり、そこに平穏が委ねられるのは不思議な現象ではない。
磯野親子は位相を反転させただけだったが、これから始めなくてはいけない夏休みの宿題に焦りおののいているような安逸を同時に孕んでいた。肝心なのは恐怖ではなく、達成されるべき先に控えている日々の栄光であったから。玲瓏たる意識がうつろいを噛みしめるためにも、、、
孝博は父親として威厳を保つ意義など持ち合わせなくてもよかった。だから一切は伏せられ、ときには全貌が切り売りされた。たぶん晃一もその考えに同調したに違いないから、込み入った実情とは異なる方角よりあくまで怪異譚たるべきして歩み寄ろうと試みている。以前遠藤久道が孝博に示唆した方向があたらに切り開かれたのだ。ただし反吐をもよおすほどの膿がにじみ出す可能性も避け難く、そこから逃げない覚悟が要求される。ふたりはそうして湯けむりに霞む人影のように妖しく互いを認めあった。黄昏どきに行き交う同士が恐怖を克服する様相に似て、、、反芻される踏み絵となりつつ、、、

列車が到着するといとも簡単に改札を抜けたと云う足取りでこちらに向ってくる若い女性を孝博は見た。
晃一の顔に笑みを送っているようにも、孝博に丁寧な親しみを投げかけているようにも見える。あるいはこのまちに生まれて始めてたどり着けたのを自ら祝福している喜色満面が、花束が飛び散る華麗さで放たれているせいなのだろうか。
「どうもはじめまして永瀬砂理と申します。晃一くんにはお世話になってばかりで」
手がのばせる距離まで早足に歩んでから、まずそっと晃一に目配せをしてから彼女はそう挨拶した。まだまだ若いから旅の疲れなど微塵も感じさせないうえ、にこやかな面持ちもしばらくは維持してゆくくらいの気概が溌剌とした身の動きに現れている。とは云ってもせわしない風情でもない、実際永瀬砂理の足先はしっかり地を踏みしめたままどこにも勝手に歩きだそうとしてないし、身ぶり手振りも大仰につくられたものでもなく、挨拶まえから一向にかがやきを失わない、そのややつり目勝ちだけれどひかりを十二分に含んだ両のひとみは、隻眼の晃一に向って余りあるほど親しみを投げかけていた。そしておこぼれを頂戴するような具合で孝博にも親和が気流になって丁寧に伝わり、「ここまで遠く感じたでしょう」と、ごく自然にありきたりな言葉が衝いてでる。
「いいえ、何せこの地方には来たことがないのでまわりの風景に見入ってしまって、何だか楽しくあっと云う間でした」
砂理の全身には思春期の少女が発するような初々しい喜びが確かにみなぎっている。
とんびが再び上空を旋回しながらのどかな声を聞かせた。素早く首をあげる仕草、好奇な目線とともに砂理の長いまつげがよく晴れた空に、まるでなでしこの花弁を想わせるように翻えり、そのあおりでもってのばされたと認めたいほどにほっそりとした首筋がすっと上を向く。清潔感のあるあご先はこじんまりすぼんで知性的なかたちである故に気丈な性格を香らせながらも、今はまだ無邪気さだけをあらわにしている。
「あの鳥かわいい鳴き声ね」
空を見上げるままつぶやいたのど笛はほんのわずか震えただけで、なめらかな白い肌はまばゆいくらい美しかった。