まんだら第四篇〜虚空のスキャット27
迎えゆく駅を通り過ぎてしまう格好になったのだったが、車で抜けゆく爽快さをおぼえ出すとそこはすでに山間であり、寄り道が別段遠回りになってしまうとも思えない。途中で弁当を買い、次第に傾斜がたかまる林道の先にある公園をめざし孝博はハンドルを軽やかに握っていた。振り返ればこのまちで車の運転をした記憶はあまりないけれど、三方を山並でぐるりと囲まれた温和な風景は、きっとすりこみになって網膜へ焼きついてしまっているのだろう、相当な月日を隔てたにもかかわらず見覚えのある山道のうねりがさながらときの緩やかな螺旋を呼び起こし、散漫である気分を優しく見守っているのだと感じ、木々のざわめきと走行音はのびやかにひとつになった。そこにあるひかりもほどよい木漏れ日となって随所に待ち受けている。
山の地形により旋回するような道筋もあったせいで県境に近づいている感覚がより増幅された。それは陸地からも見渡せる離れ小島へとせまったときに押し寄せる小舟の勢いに似ている、海上の距離が一気に遠のく爽快な錯覚。時間の麻痺は包み込まれる光景のなかで生まれる。
「まだ夏の山って感じじゃない。紅葉には早すぎるね」
直接照りつけた太陽にまぶしい目つきをしながら晃一は尋ねる。
「三好さんも言ってたよ、裏山でつくつくぼうしが鳴いてたって。おそらくあれが最期だったんだろけど。それにしても今年の夏は永遠の日差しのようだった。でもあとひと月もすればこの辺りも綺麗な紅葉に染まるさ」
孝博は尾根から麓までまだらながらも色彩が植えこまれた山の声を想像した。遠目には種類は判別出来なくても木々が燃えさかるようにして色めきだつ、しかも枯れゆくまえにして鮮やかな変容を遂げる情念を静かに夢想した。山全体を眺めやるまなざしは曖昧な慰撫に落ちつかず、もっと鮮明な意思に即されているような心持ちへとたなびく。「まったく妙なものだ、今ここにある山林になぐさめられながら、これから日々先の紅葉へと思い馳せてしまっている」そう胸のなかで唱えてみるのだった。
緑が連なる単一な山稜を追う目線にはない、そうまるで気高い造形を見上げてしまう半ば高圧的でもある何かに縦走する心意気が与えられ、なめらかな曲線を描きながら下っている様をじっくりと追うようにしては、その様々に染まった華飾の宴に魅入ってしまい、控えめな亜麻色から杏色へと移ろう階調に感心する間もなく、赤錆が生じたかの点綴に瞳孔が反応しつつ、中腹へと下山する足取りのままそこに取り残されたみたいにしている針葉樹の、まわりに同調してしまうのを勇ましく拒み青々と茂り誇示する一群はより紅葉の本義を際立たせ、隣り合う鶯色にささやきかけているのもやはり染色の気概か、丁字色や浅蘇芳、洗朱、唐茶など微妙な配合に交じり合ううち、裾野へと沈むようにひと際かがやいている楓の枝ぶりが山道沿いからうかがえる。そして行く手をさえぎるのでもなく、格別何かを伝えるわけでもなく、微風にそよいでは首を泳がしているすすきの群れが、光線のなかでときと戯れている。
間近に接するが故なのだろうけれど、不動に配色された山並みとは異なる晩秋がそこに息づいているのも季節の美しさである。それからもう一度、真っ赤に焼きあがったもみじが天にのびさかる様と、地にのぞみしだれる様を、鮮烈なあかしとしてこの胸に収め置く。雲も微かな蒼空を血で洗う意想は、まさにこの先への予感かも知れないから。
「ちょっと待って、今のとこ右手の下」無言のままもの思いに耽っていたので少し慌てる。
「どうしたんだ」
「そこで止まってくれない」晃一は運転席ににじり寄りながらその場を示す。「小さな淵というか、しかも滝があるよ」
孝博には気がつかなかったが、確かにガードレール越しから渓流らしき水しぶきの気配があり、それほど大きくもないけどごろごろとした石が転がっているなか温泉みたいな格好をした豊かな淀みがある。
停車して覗きこむと晃一の言った通りそこは淀みでなく、川幅がひろまった流れであり、ただ上流からの勢いが上手い具合に積み重なった大きめの石でせき止められ、同様に下流に対しても水はけが狭まっているのでこんな温泉とも、こじんまりしたプールとも云える淵が作られていた。しかも山手を伝い岩盤を落下する滑滝は何ともすがすがしく、その幅はひとふたりほどであろうか、水量も実際に受けてみたところで危険に見えない。仮に富豪であるならばこのままそっくり自宅の庭園に再現したくらい、子供らは必ず大はしゃぎすること請け合いなほど、滑滝が落ちゆく川底は浅瀬であり水は透きとおっていた。
「真夏だったら絶対にあの滝に打たれてみたいな、打たれるってほどじゃないけど。でも気持ちいいだろうな」
晃一の笑顔は孝博にもよく理解出来た。「そうだな、便利な修行場だな。流される心配もないし、溺れることもない、でもそれじゃ、修行ではないよなあ」
「ねえ、父さんここで弁当食べよう。公園まで行かなくてもいいよ、ここが気に入った」
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