まんだら第四篇〜虚空のスキャット23


寄り合いに行っててつい今しがた帰ったばかりだと言う三好に挨拶すると案の定、晃一をいたわる声色は留まるところを知らず、当人も閉口してしまいそうになるほど厚い気遣いなので、「こうやって元気な顔を見てもらいに来たんですから、もう本当に大丈夫です」
そう数回似たようなセリフを繰り返す始末だったが、合いの手に比呂美から、疲れただろうから先に風呂へと促されて磯野親子は再びふたりだけになった。以前は旅館であったここの浴室は情趣あり気に湯けむりが立ちこめており、ふたりの姿を曖昧なものにする意欲を宿しているようだった。
実際に疲労を感じていたのだろうか、お互い無言の裡に入浴をすませ、夕食も会話を弾ませようと躍起になっている三好へ礼を欠かない程度の冷ややかさで交し、疲れた素振りを両人がしめしたことでその夜は早めの就寝となったのだが、孝博は遠藤の件で執拗に三好を煩わした手前さすがに、
「重文さん、いろいろとお世話になりました。遠藤さんの事件でも手数おかけしまして、前にも電話でお話ししましたように少々気にかかることがあって又ご厄介になります。四十九日は今日だったんですよね、何かきりがいいと思いまして、明日なら親族も帰られてると思いますし、あそこの奥さんにもお話を聞きたいもので。それと晃一にはよい機会だと思ったものですから、すっかり立ち直ったところを見ていただければ」
と、もっともらしい言い様で事情を説明した。遠藤の死因究明を急いたことで変な勘ぐりをされてしまったのも、何かよい言い訳はないか案じていたのだったが、三好から問い正してこない以上は弁解することもないから、とりあえずは明日の訪問に意識を集中しよう、そう強く噛みしめ辞して床が敷かれた客間に入った。
ところが早々に寝床にはいったにしては晃一も寝付きがよくないらしい。東京では深夜になっても静かなようで交通音は闇にまとわりついているのか、耳を澄ますまでもなく断続的に低いうなりを寝室まで伝えるれど、このまちでは夜によって土地そのものが沈下されてしまったようで、余計な雑音を濾過したごとく凛とした自若に支配されている。裏山にひそめる獣の眠りさえ想起されそうな気配は、反対に冷厳なる掟に託されて安堵をもよおし、時折の風が通り過ぎてゆくのも気にならない。窓の外の船着き場からも繋留された小舟同士が波間で揺れては軋みそうになることもあるのだろうが、今夜は黒い液体と化した海水の凄みにあたりは鎮まって、ただ寝息を思わせる潮の匂いにささやかな波の音を感じ取るのだった。
すると孝博の悔恨は夢の導入部にいざなわれるのか、ようやく静寂になれ親しんだとばかりに少しづづ殻を破って脱皮する蝉にように、忸怩たる変容を受け入れ始め、眠気がささないにしては気分は曖昧な心地に揺られながら、ある確信みたいなものを意識してしまう。だが直接それを見通す思慮は働かずに、遠回しな言葉となって夜気に吐かれた。
「そういや、おまえ彼女も連れて来ていいかとか言ってたけど」
実際にも孝博はそのことをすっかり忘れていたので思ったより控えめな口調になる。
「あっ、そうか、まだ話してなかったっけ。ごめん、ごめん、明日の昼過ぎの列車で来るからって」
ふとした弾みで悪戯が以外な思惑に流れたときの気持ちを思い出す。
「そうかい、別にかまわないけどここに泊めてもらうつもりなのか」
「そうだね、それなら早めにしげさんに伝えておかないと」
「こっちはどうにかしてもられるだろうが、彼女のほうはどうなのやら。父親のおれも一緒で堅苦しい思いをするんじゃないのかって。まだ会ったこともないしな」
「悪いなあ、父さん、実は色々と彼女にも話して聞かせてあるんだよ。父さんらに会わせるだけなら別に東京でもよかったんだけども、、、」
一瞬はね起きそうになったのは、内心では折角ゆるやかに語りだそうと努めていたところを、いきなりあの確信に近づけてしまう予想外の吐露が晃一によってもたらされたからであった。
聞けば、このまちで起った珍しい事件に関心があった為、それはまるで怪奇小説もどきの感触を授けてくれたからで、自分が電話口でしきりに興奮しているのを心配しながら、謎めいた秘密に惹かれるまま遂にはそのあらましを知ってしまい同行を願って出ると、思いのほか容易く了解してもらえたのでとてもうれしく、それとやはり過去の受難が翳ることに対する錯綜した意識が大きくせりあがってきて、本当は親子で臨むところに現在の彼女を加えればもっと違う何かが開けてくるのではないか、その心境はよくよく顧みれば分かりそうでもあるのだけどあえて実際の行動に出てみたかった。このまちでひとり暮らしをと願ったあの日のように、、、
素直な響きを耳にしながら、晃一の声は暗闇のなかでわずかながら震えているのを感じた。
「いいさ、明日ではなんだから、まだ重文さんも起きているかも知れない。早く頼んでくるんだ」
飛び起きる調子で「うん、ありがとう」と答えて部屋を急ぎ足で出て行った晃一の夜目には判明出来なかった笑顔を想像しかけた途端、孝博には彼女とやらがここに訪れる理由をまだ知り得てないのを思い、どうせならこちらから根掘り葉掘り問いただしてみようとさえ誓った。
「晃一それではおまえの都合だけじゃないか、すると彼女は単なる脇役だぞ。そうじゃないだろ、父さんによく説明してくれないか」
真っ暗なはずの部屋に夜空の星が幽かに灯っている。晃一がはね除けた夜具が盛り上がっているのを横目で眺めれば、布団のひだが更なる暗黒をそこへ作り出しているかに映った。月夜が待遠しいのは云うまでもなかった。