まんだら第四篇〜虚空のスキャット22
駅に着くまで眠りこんでいた晃一を落ち着いた気持ちで揺り起こし、改札を抜けたときにはすっかり宵闇が地面から立ちのぼったふうに上空まで充たされていた。
「やっぱり匂うよね、潮の香りがほんの少しだけど」
晃一にとっては苦い経験を回想させる帰省となるはずだったが、妙にさばさばした口ぶりは屈託なさを素直に表しているいようだけれども、あるいは一抹の懸念を糊塗するために陽気な顔つきをこしらえているのかも知れない。孝博にとってもその気がかりは同様であり、それとなく三好に尋ねてみたところ、木下富江は再び名古屋に行ったそうで遭遇することもないだろうとは思っていたのだが、晃一を伴って今回こうしてこのまちへ戻ったからには、消し去れない感情が線香の煙りのようにどうしても細くたなびいてしまう。
静まりかえった駅前だったが数台の車は出迎えに来ている。
「そうかい、父さんには匂いはわからないなあ」
と少し間を置いて返答したとき、左側から聞き覚えのある声が飛びこみ、それが比呂美であるのをいち早く察して大きく手を振った晃一にはそんな印象など忘れてしまったようで、
「わあ、ひさしぶりです、比呂美さん。わざわざ迎えに来てくれたんですね、どうもすみません」
そう言いながら満面に笑みで孝博に先んじ歩み寄るのだった。
「晃一くん本当災難だったけど、また帰ってくれてうれしいわ。元気そうだし」
「前はお世話になりました。視界は狭くなったけど最近ではもう慣れてしまったのか、それほど不自由でもないし、失意も感じてませんから」
明るい口調にほだされたのか比呂美の顔色も夜に華やぎ、やや伏せ目がちだった視線をしっかり相手に合わせて大きな笑みを作りだしている。そしてそのまま表情を損なうことなく照れた様子で孝博にお辞儀した。
「さあ乗って下さい。わたしの運転もだいぶ上達したから安心して」
駅前から直線に延びた通りを走るとやはり秋めいた心地のよい風が流れ、海岸線に差しかかると確かに潮の香りは鼻をつく。列車内ではもの想いに傾かなかった分、あっと云う間に到着してしまう車の速度がやるせなく、ほのかな灯しに揺らいでいるようにも見える船着き場から漂う潮風がいとおしい。この夜景には何か凝縮された思念が溶け込んでいるし、胸の奥で妖しく発酵している意志がひそんでいる。匂いが鼻孔へまぎれこんだ瞬間、封じられていたものらが胎動し始めると云うよりも一気に解放されていく感覚が全身をめぐり、喜びとも哀しみとも怒りとも異なった理知的な興奮が訪れるのだった。
三好の家に向う短い時間であるがゆえに、こうした起伏のある情感がわき出しているのを孝博はよく承知していたし、この先にある堤防で遠藤が死んだことも脳裏をよぎり、夜の海がはらんでいる得体の知れない妖気が鳥肌を立てさせる。真の道行きは先程までの線路ではなく、このわずかな走行に敷かれているのだ。それは目的らしい目的が定まっていないこの帰省を正当化するために緊張度を増幅した計らいとも云える。半ば遊び気分で付いてきた晃一の考えを吟味することなく、都合よく学者根性を盾にし情念に流され、さらわれる素振りをしながら慎重に冷静に深淵をのぞきこもうと企てているではないか。
あれほど渇望した遠藤の死を探ること、それはもう直接の使命感を帯びておらず、彼に供える線香のたなびきに忍びこむ過去を精算することを願う一心に集約されそうである。ならば晃一にすべてを話し聞かせて許しを乞うた上で、蠱惑から目をそむけられない本心を吐きだすべきなのだが、それはそのまま父子交えて色情を語る不埒な、もしくは滑稽な場面を生み出してしまうから秘められるものはそっとしておくべきなのだ。黙される事柄をあらわにするのは決して最良の策と限らない。親としての矜持が崩れゆくのを怖れているからではなく、息子を叩きのめすよりはるかに過酷な傷を背負わしてしまうのが危ぶまれたからで、知らぬが仏を決め込んでいるほうがどれほど平穏を保たれることだろうか。真相を知れば必ず亀裂が生じ、親子の絆は寸断されてしまう。失恋の勲章だとうそぶいている晃一のこころは単純ではないはず、失明の自覚をやわらげるためにも強がりを演じている可能性は低くない、もしかしてこれも否定出来ない可能性だが、富江からことの次第をすでに吹き込まれていたのだとしたら、、、すべてを受け入れるか、すべてを捨てさるか、幸いおもて立って窺えるのは前者のほうであるから均衡は維持されているのだが、もしそうであるなら何と健気なのだろうか、、、親子である以前に人間として晃一の意地らしい気持ちをしっかりくみとってあげなくてはならない。
孝博は最悪の情況まで気をやっている自分を嫌悪しながらも、深淵に近づいている今を意識してしてやまなかった。すると晃一への謝罪は別室の扉に閉ざされる調子で風化され、代わりの扉が開かれてそこが禁断の間であることが知らしめられる。白い冷気が底を這うようにして近づくものらの足跡を覆い隠してしまう。消されたのはふたりの親子だった。共犯者である暗黙の了解は常軌からの逸脱を弁明している。
徳性の働きはそこまででよろしい、扉の下に漂う冷気は血糊をつけた鋭い刃物のごとく理知的であった。
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