まんだら第四篇〜虚空のスキャット21
陽光はいっこうに衰えを見せなかった。十月も半ばに差し掛かったが蝉時雨はまぼろしの音色で真夏を留め置こうとしているのか、季節の実感は剥奪され異形な晩夏に席を譲り渡した。
倦み疲れたからだを左右にずらすよう、いら立ちを噛みしめながらもときのうつろいにあがらう事なくその熱気を受け入れる。
「秋の気配はもう来ているのにね、だって風は渇いているわ」
孝博の妻は何度かそう言っていた。確かにこの大きく広がった車窓の眺めから、空は澄んで雲は柔らかに細かく乱れ、弱く冷房がかかっている車両内でも体感出来るほど景色は自然であった。
隣でうたた寝している晃一を時折見つめつつ、ふっとため息をもらし視線はうしろに走り去る光景を所在な気に追いかける。ようやく今年の夏が今日明日にも終わってしまうことを天気予報は伝えていたし、昨日そちらに向うと連絡した際に三好が「まだつくつくぼうしが裏山で鳴いているから」と言ってかすれた声を出したときも、延長戦ぎりぎりまで競技を目の当たりにするような錯覚でとらわれ、再びこうして特急に揺られている現実はどこか遊離したふうで、秋風が頬を撫でてゆくのが待ち遠しいのやらどうかよくわからない。
そうするうちにも日暮れを忘れてしまったかの時刻の鮮明な証しは調整され、気がつけば山々を押さえつけるよう晴れわたっていた青空はくすみ始めていて、白雲も寄り添い大きく光を包み放さず淡い鬱金色に変貌しつつある。陽が陰り出すのはあたりまえだと天空から清明な響きが降りたのを孝博は快く了解した。それと共に様々な思惑が胸のなかを去来していたのだが、そのひとつひとつに思いをゆだねるのも今は軽やかにあきらめ、外の景色がくすぶりながら遠のいて行くのを静かに見送った。ちょうど各駅を尻目に走り抜けるこの列車のように。
山嶺が連なる光景はまだまだ窓越しに指先でなぞれる程くっきりとして、気ままなおうとつを失っていなかったので孝博は凝視したままの姿勢を保った。心は空洞であった。しかし一瞬一瞬は何かを埋め尽くすよう見つめた向こうから押し寄せては消えて、水墨画の濃淡に似た曖昧さで風景をのみ込んでゆく。
山間に点在する村落が夕陽にさらされる頃、孝博のからだにも暖色で描かれた感情がめぐって来るのだったけれど、それは意想を孕まない無関心な状態で通され切実な色合いを拒んでいた。彼はいつかの情景、トンネルにくぐったとき車内の明かりで反射した自身の顔を忘れはしない、だが、どんな表情であったのか思い出すことは必要ないと思われたから、そろそろせわし気に車窓が遮断される山中に迫っても、ゆっくりとまばたきをするのだった。
早く抜け行くトンネルを出た途端、今度は夜が訪れたのではと疑ってしまうくらい長い漆黒が視線を閉ざす。そして開けゆく谷間やどこまでも凡庸に広がっている野山がぱっと現われても、微動だにせずそのまま無表情でいられるのが微かに心地よかった。遥か彼方に感じる峰々があきらかにかすみ出して、空の青みが鉛色に侵蝕された時刻、太陽はすがたを雲間に隠したままもう今日は再び光線を放つ勢いをひそませ、大地に黒檀を敷き始める。じっと無心で見遣る孝博だったが、さすがにその頃合いにもなればまばたきの様相で落ち着きにはらっていた面持ちに、甘い郷愁が優しく忍びよって、小学生の時分映画館から出た瞬間に辺りがすで宵闇に包まれている名状し難い驚きを知ったことが想い出され、日中から暗闇で映像に魅入ってしまった後の叱責のような、けれども夢の送りものかも知れないなどと映画が外まで着いて出たのでは、そんな虚言が許される心持ちに酔った。時間の推移をこうして身に知らしめるのは奇跡のまばたきであったから。
あの日に連れ立っていたのが親であったのか友達であったのかは明確でない、振り返れるのは帰途にたなびく金木犀の香りのような甘さだけである。
芳香に惑わされたわけではないけれど、すでに窓の向こう側も一気に照明がしぼられてしまい、稜線はぼんやりと意思をなくしたみたいに大人しく、枯れることを気づかぬ木々の緑も夜気に被われ、夕映えの名残を惜しむ間もなしに暮れてゆく。すると又しても鋭い軋みが風圧に消されるようにして列車は闇に飛び込み車窓を暗く塗りこめ、夜の帳を乗客全員に告知する。吐き出された刹那には山村へ灯る親しみが不意に現われ、見る者の胸に巣食う驕りを品よく袱紗でくるんでしまって、ほんの束の間だが殊勝な気分にひたることが出来る。
寝息を立てている晃一に首を向けてみれば、黒皮であつらえた眼帯こそ痛々しいが、失った視力は永遠に閉ざされ闇夜に眠っている。夢のなかでは晃一の右目からとげとげしい小枝を抜きとった、、、どうやら無心から夢想に移行したようだ、、、甘い郷愁は到着駅へたどり着くまでの安定剤みたいなものなのか、、、
山稜はすでに夜空へとけ込み田畑もおぼろげな土の気配を残しどこまでも沈黙を守り続けていた。
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