まんだら第四篇〜虚空のスキャット20


切手帳から取り出すのも慎重さで寄せられているのが、それほど重要でもないように感じてしまうのは特に高価な一枚であるべくもなく、ただ同じ紙質でかたち作られ印刷されただけの類比では例えようない、哀れさみたいな親しみが「髪」の価値を本来の場所に戻すよう静かに願っているからなのだろうか。
他の切手らにも似たような気持ちで接したこともあったのを思い返せば、どうやら過剰な記憶は後々に生まれたと察せられる。
晃一が子供の時分よりこの一枚に興味を抱いていた事実も、いつの間にやらシートで保有していた過去も、今の孝博の胸には反響することなく極々自然な成り行きだからと優し気にまなじりを弛められた。
大阪万博にほとんどの領分が持って行かれたのは当時の世代ならほぼ共通した傾向であった。それはまず普段では叶わない空間移動でもあり、すでに出回っていたガイドブックから立ちのぼってくるような魅惑の世界は、かつてない国際的な規模がもたらす夢想のときめきとなって嫌が上にも興奮せずぬにはいられない。テレビや映画でしか触れることのなかった大きな祝祭が、まるで子供たちの為に開催されると錯覚してしまうくらい期待はせり出し、手をのばし、足を運べばその場に到達する可能性は日々の玄関口の開閉から、いつでも飛び出せて行けるような現実味を有していた。
孝博も家族揃ってちょうど大阪の方に親戚がいた幸運もあって、夏休みに万博行きが実現されたのだったけれど、懸命にあのときの光景を呼び返そうと努めてみてもどうしたわけか、鮮明さを欠いた曖昧な想い出だけが執拗に脳裏へ浮かんでは消えてしまう。道中は無論、入場口までせまった際の胸の高鳴り、夏の日差しには慣れてたとは云え、会場全体の雰囲気を取り戻すことなど、いや、始めから全体などに気配りしておらず、一心に求めたのはガイドブックから得た有名パビリオンの数々だけであったのだが、結局は人気あるところは誰もが殺到していて、先端科学とはおおよそ無縁でしかない発展途上国の展示物、木彫りの像やら原始的な仮面やらを意気消沈しながら見流していた念いが今でも澱のように沈殿している。
「アメリカ館は四時間待ちだとさ」「なんだ月の石は見えないのか」「三菱未来館も大行列」などと云った憤懣の声が周囲から聞えてくる度に孝博は、心中半泣きになりながらどこかであきらめが毅然として充当されているのを知った。
その心持ちは欲しい玩具を買ってもらえなくて駄々をこねる感情とは違い、未知なるもの、これまで胸のなかに棲みついたことがない、たおやかな形をした落胆であった。
あたりが夕闇に包みこまれるのがいつもとまるで異なる気配であったのは、見回すまでもなく目線の先にそびえる「太陽の塔」に夕陽が反射しているのか、あるいは会場自体の電飾が灯しだされたのを夕暮れは強調を持って演出に与してくれたのか、肌色が燃えあがったような夕映えのきらめきは、瞳にまぶしいと云うより、こころに明るいと云うより、自分のどこに光を受けているのかよく掴めとれないまま、暗澹とした夕暮れ時を受け入れる開放感に慰撫されていたのだ。孝博はそれからの日没風景に溶け込んでしまいそうになった感覚をよく憶えている。行き交う白人や黒人たちにその都度振り向いてしまっていた、微小な怯懦は宵闇の暗幕により一層保護され、物珍しさへと背伸びしてみる矜持に脱皮してゆく。金髪の青い目をした若い女性と視線があったとき、思わず笑みを浮かべてみると相手もそれ以上の笑みを投げかけてくれているような気がする。各パビリオンから発光された夜祭りに他ならないこの黄昏のひとときに孝博は陶酔し、今まで味わったことのない忘我に見舞われた。
残念ながらそれ以上の情況も心境もすでに輪郭は為さないうち、どんどんと遠ざかってしまうだけなので、茫洋とした意識にあらがわずそのまま、じっと日没際の暗幕に身を沈めるのだった。

後年、仕事関係の出張やまったくの観光に出る機会も憶えきれないくらいあったが、あの万博会場で体験した異次元への旅を忘れることはない、、、さあ、今度の道行きは果たしてどんな異化作用をもたらしてくれるのだろうか。準備などいらない、心構えも必要ない、一度は鮮烈な修羅に歩みよったではないか、出来れば手ぶらで臨みたいけど晃一を伴って行くのも悪くはないはずだ。何しろあいつ自身が乗り気なのだから、、、この帰省に意味などはない、遠藤の妹に出会えれば首筋を噛むとはいい公約かも知れない。
「遠藤さん、あなたはわたしにも探偵となるよう反語で提案された。秘密めいた妹とのいきさつをちらつかせて、、、ところで真犯人など本当に存在するんですか。わかってますよ、わたしのこころにこそ潜んでいると言いたいのでしょう。まあ、それはそれとしまして、あなたの死因にはとまどっていますけど、謎めいているまでとは申しあげにくいわけです。事故は事故、偶然は偶然、それ以外ふるいにかけられこの手に落ちてくるのは、そう、やっぱりわたしの妄念、一時はあなたは絶対に遺書を通してこのわたしに託されたと信じていました。仮に他殺だとしてもそれらしき危機感をあなたは感じていたでしょうし、話せる範囲ではほとんど言い尽くしたとも思えます。まったく根拠などなかった、わたしがすべての原因であるのでしょうから、、、」