まんだら第四篇〜虚空のスキャット12
「まったく何が探偵だと、聞いて呆れる始末でしょ。しかしですね、結構あります。探偵自身が真犯人だったと云う小説。未読だったら申しわけないので題名は申しませんけど。
怖がる妹をもっと怖がらせる増長の隠れ蓑にどんな思惑があったのかは容易く推測出来るはず、どうぞ気になさらないよう、まったくその欲情がわたしを突き動かせたのですから、、、ただ、美代が見せた思わぬ抵抗なさには隠れ蓑のはがれ落ちてしまう気おくれが、、、これはどう言えばよろしいのやら、大人になってみても経験することですけど、興ざめとか失意によるあの白々しく落ち着きを取り戻す場面を浮かべていただければと思いまして、そうなのです、欲情の剣先は鋭いままに空を斬り、その瞬間に飛び散るのは火花などではない、怒りの感情が高密度で噴火する溶岩だったり、戦慄の情況が痛感をともなった天幕に覆われることであったりするのでもなく、もっと隙間だらけの、そう自分から見てもどこかに逃げ場があるみたいな弱々し気だけれども、いささか有余がはかられる点在した平温の意識、そんな醒めた視線が折り返して来るのでした。不甲斐なさもすぐ後から追いつく狭間に置かれた尻込みは、しかし不透明な自由をあたえてくれます。こう云うことです、妹の背にまわした片腕全体に伝わってくる感覚を再確認する権利のような横暴さ、とは云え決して攻撃的な力などすでに抜け落ちた腕にしだれかかっている懐かしくもあり、初めてでもある感触がわたしのなかで几帳面な葛藤を引き起こしているのです。几帳面など何を驕慢とお叱りを受けるかも知れませんが、どのような情況であれ人は咄嗟の判断を意識面に浮上させる以前で処理しようと努める限り、そうですね、例えば衝突事故などの危機に瀕した際に発生する、動体視力の最大活性による場面のスローモーション化、それから視覚情報の集約へ特化する為に他の感覚器官をシャットアウトしてしまう的確さ、そうした場合は厳粛の極みなのでしょうけど、几帳面であることに同様じゃありませんか。お医者さんごっこから逸脱しかけた行為、ええ、今からそのときの詳細はお話しますけど、そんな幼稚な癖に卑猥で軽んじていながら胸ときめく実情、どうしてどうして、下手すれば近親相姦に踏み出しかねない危機的な有様と云えるのでは、、、そして身のこわばりにかつて感じとったことのない罠が仕掛けられているのではと云う恐怖にひたりながらも、甘んじて見知らぬ領域に分け入ろうとする悪戯ごころでは済まされない予感をよぎらし、まぎらわす酩酊のような心境、、、
あの映画の日から数日後のことでした。はっきりした日にちは憶えていないのですけど、美代とわたし以外は家に居なかったことは確かです。やはり夕暮れだったと想い返したいのも、ひっそりと静まった家屋に燦々と照りつける陽光が似つかわしくないだけなく、情欲の火照りに促されて自ずと日陰を欲したのでしょう。
これは先にご理解していただきたいのですが、何もその日を狙って前々から計画的に事態を案じていたわけではありません。とは云え、家人が留守なのを了解してから美代をわたしの部屋に呼び寄せた事実はどこかで期待したからに違いなく、話題つくりのきっかけも、この間の吸血鬼についてもっと知りたくないか、などと言い出したところをみれば未必の故意より深い心理が働いていたと思われます」
そこまで淡々とそして淀みなく語って来た久道であったけれど、そこから先がいわゆるクライマックスに差し掛かるのを意識してか一呼吸入れる案配で言葉とぎらせ、口角は閉ざされたまま、ややうつむき加減の姿勢をとるのだった。孝博にしてみても、自分の顔つきに護符がはがれ落ちてしまった不吉さの仮面を張りつけられているようで、それは以外な展開を耳にしてしまった高揚が為せる懐柔だろうが、善きにつけ悪しきにつけこの場に対面している限りは相手の意趣に従う意味合いを重々承知しているつもりであった。
そう改めて思ってみるとこの幕間は自ら願ったほどよい休息にも例えられ、観客であることの気安さと気楽さがこの室内に充満しているのだと感じられて来る。苦渋の面はその心痛を過ぎ去った舞台に置き去りにしたまま、抜け殻となって暗幕に隠れ、次なる幕開けの際にはちょうど能面のような淡白さで新たにこの顔容を作り出すだろう。聞き手に準じることは必ずしも下手に位置するとは限らない、耽読者が作家の意のままに流され操られていないように、視聴の選択が多岐にわたるように、楽曲のフレーズには自在な快楽が宿っている。孝博の胸中にはしおりと同じ役割が分配せれて、小さなけれども主導権に肉迫する居場所が見え始めていた。数度のまばたき、そうそれくらいの間合いが現実なのかも知れない。だが至上の間合いはおそらく誰も入りこむことの不可能な瞬間であり、精々そこに吐息をもらすくらいが我々に許された実行なのだ。
久道の口が再び開いた時、幽かな風が生まれたように感じられた。それは指揮者がタクトを振り上げた更なる楽章への入り口、無音の調べであるかのようだった。
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