まんだら第四篇〜虚空のスキャット11


「すでに問題の糸口が一気にほどけてしまったと思われても仕方はありません、、、そう磯野さんの顔色にも出ておりますし、原因究明に向うところだとすればあまりに単純すぎ張り合いないのも当然、ええ無理もないですね。しかしですよ、先ほども申しましたようにわたしはあくまで補足としてこの逸話をお話したまででして、必ずしもあの映画が美代へ何らかの決定的な影響を及ぼすことに至ったとは結論を急いでおりません。ただ、妹同様に魅入ってしまった事実は便宜上であり、本当のところは後年になってからこのわたし自身が感銘したのだと云うほうが意味が深いのです。もしまったく違う映画、例えばスパイものでもいいでしょう、美代とふたりして観たとしまして同じく似たような興趣を得たとすれば、そして成人してから彼女が仮にですよ、北朝鮮の工作員になってしまったとしたらどうでしょうか、そこにゆるぎない因果を定めてしまうのでは早計じゃありませんか。
さあそれでは、どうしてわたしに対する影響がここで重視されなくてはならないかの理由を説明しなくていけませんね。はい、もちろん多少は入り組んだ事柄ですけれど、えっ、そうですか、確かにここは論証を求める為にも微に入り細に入り、、、わかりました、ではお言葉に甘えさせていただき紆余を承知のうえで語らせてもらいます」

孝博の表情がゆがみ出し始めるまでに相当の時間があったとも云えるし、そうでなかったとも云える。それは殊更もったいぶった付加価値を与えるような謂われに感染した結果ではなく、また久道の話しが本人のことわり通りまわりくどい言い様で間延びしてしまったわけでもない、つまるところ晩夏の夕闇に季節のうつろいを感じとる、あのしめやかな気配が憎らしいほどに予見され、自ずから陥穽にのまれてゆく心構えが出来上がってしまっていたのだった。徐々に遠のく太陽がさながら暗所を際立たせることを知りつつ、それでいて時の流れには無頓着であるかのように。

久道はまず「血とバラ」がもたらした後年の解釈からひも解き出した。彼の云うところによれば吸血行為には異形や残虐を越えた濃厚なる聖性が隠されていて、それは異常な現象であることの断面的な印象から袖を分ちながらも、やはり血液と云う人間にとって古来より忌諱の対象であり根源であった断ち難い生命に由来する限り、異常性はひるがえって崇拝の領域に達している。何故なら血の流れこそが命の源流であり、心臓に象徴される臓器の機能より深い位置づけが示すように、血も同じく皮膚の下を肉の中をめぐり普段は外部にしみ出すことはない。そんな地下水脈にも似た隠密さもひとたび傷つき、或いは病気などの要因が引き起こされれば最も強烈で鮮烈な真紅色がしたたり落ち、あたかも太陽の輝きが肉体から噴出したとさえ見まがう印象を焼きつける。さて肝心なのはこの印象を人工的に、ここではあえて人工的と呼ぼう、部族ひいては民族の闘争による殺戮がもたらす流血とは異質の個人的なあまりに個人的な行為によって為される由縁にある。創作上の吸血鬼にみられる一貫した特徴は彼らが夜の魔物であり、生き血は魔物にとっては不可欠の聖水だと云える。この逆説めいた言い方は明解な絵姿が浮かび上がる仕掛けになっているし、と云うのもドラキュラに代表される夜の支配者は、まさに闇の中だけを治めることしか叶わず、陽光を浴びては灰燼に帰し、聖水を浴びせられればその皮膚は焼けただれてしまう。そして滋養強壮効果の高いニンニクを嫌うあたりにはかない生命力が裏書きされているようだ。漆黒のマントの裏地は見目も毒々しい鮮血色で染められているのはあながち偶然ではあるまい。
夜な夜な密かに忍びより、傷つくことない人々が流血の憂き目に合う。しかも血は流れ落ちるのではなく魔物の牙によって吸いとられる。残虐であると同時に夜への供物として差し出される命の流れは、陽が陰り闇に覆われた世界に、より深い地下世界に吸い込まれてしまうことによって再び肉の彼方に還元されるとしたら餌食になった者も単に殺されたのではなく、闇夜に彷徨いでた旅人なのかも知れないし、やがて彼らも吸血者と化して地下世界に新たな息吹を見出すところを窺えば、邪教崇拝の対象と成り得る要素は十全に含まれているだろう。そもそもドラキュラが十字架や聖水を嫌悪すると云うのも、キリスト教の絶対的な権力主義の現われ以外に理由は見当たらないわけで、その図式に則った物語の単純さは水戸黄門における三つ葉葵の紋所で権威が誇示される場面を彷彿とさせる。
退治や成敗はさておき、ブラム・ストーカーの生み出した吸血鬼が一般的なスタイルに定着したかと思いきや、レ・ファニュの『カーミラ』と云う年代的にも先に書かれた物語を下敷きに映画『血とバラ』は作られていて、そこには十字架もニンニクも登場することなく、ただただ狂おしい情欲が切なさを伴った淡い森の木漏れ日として、霧がかった湖畔の憐れみとして描かれている。あの心臓を針先でひと差しされるような痛々しさえもが美化される幻影を除いて、、、
「ええ、その通りですよ、あなたの言う通りです。女性同士の吸血行為にわたしは悦楽を見出してしまい、その空想に小さな翼を植えつけたのでした。丁度あの頃、上田秋成の『青頭巾』を耽読していたこともありまして、はい、あっちは僧侶が稚児を溺愛した挙げ句に鬼と成る話でしたが、どうした反動なのか、はたまた転移なのか、もう空想の域にとどめ置くすべもないまま白日夢となって浮遊してしまい、いや、ただの衝動だったのでしょう、あろうことか美代の血をひとすじでいいから口にしてみたいと思い、、、そうです、あまりに身近な故の戯れだったと弁解しても道理は通りませんね、どこか遊び半分で済まされるのではなどと云う意識も片隅に忍ばせていたことがこうして思い返されていますから、、、」